耳を澄ますとき

だれかとの時間、こころに染み入る ことばの記録

“自分を表現する” よりも “自分が現れてくる” ときの圧倒的な美しさ

 

 

しだれ梅、その影もまた美しい。

 

というより、むしろ影の存在が梅の美しさを際立たせている、とさえ感じる。

 

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古語では「光」のことを「影」といったのだとか。万葉集古事記では、太陽や月の光を表す言葉として「影」がもちいられているし、場合によっては「姿」を表すこともある。

 

漢字学者の故・白川静先生は、影の首部の「彡(さんづくり)」は「美しさ」を表すことから、「影」は光の美しさ、あるいは光と影の両者でつくりだす陰影の微妙なニュアンスのみごとさを表すものと考えておられたという。(『成り立ちで知る漢字のおもしろ世界 自然編 白川静著「字統」「字通」準拠』伊東信夫著より)

 

古代から日本人は影に光や何かの姿を観て、そこに美を見いだしていた。この感性は、だれかの面影(心のなかに在る人の顔や姿)を写した物を大事にするという、わたしたち日本人のメンタリティに強く影響しているように思える。(あ、影響と今書いていて、これも「影が響く」という影つながりな言葉だったと気づく....影の影響力ってすごい)

 

 

で、ともあれ「影」の空間から立ち現れてくる美しさについて考えてみたいのです。

ついては、ひとつ素敵なエピソードを。

 

一昨日「影舞」をご一緒した男性との空間で起きた、圧倒的な何かのうねりに、わたしたち二人が運ばれていく感覚が、いまだ色濃く身体に残っていて。

 

その「圧倒的な何か」に思いを馳せると、浮かんでくる言葉は「美しさ」なのだけど、もっといえば甘美さや耽美さをも内包する、互いの根源的な存在美がふれあうことで生じたエネルギーのうねりだったかもしれない、と思ったりする。

 

彼と指先と指先を繊細にふれあわせながら「影舞」をしたとき、わたしたちに一切の目的はなく、舞踊のように自分や何かを表現するとか、美しく見せようといった意図も働いてはいなかった。ただただ、ともに在ることで起こる流れ(動き)に身をまかせたにすぎない。

 

それにもかかわらず、鑑賞してくださった方々からは「美しさに圧倒された」「艶やかだった」などと褒めていただき、一緒に舞ったお相手からも「綺麗でした」とまで言っていただけるという......ありがたい言葉を心に沁み渡らせつつ、なんというか、自分だけが自らが醸し出したらしい美しさを観ることができないもどかしさに身悶えするような感覚もあり(苦笑)

 

だからこそ、やっぱり気になる。

「影舞」の空間で、いったい何が起きているのかということを。

 

影舞や円坐を探求されてきた 橋本久仁彦さんは、こう語られている。

 

影舞は、誰にでもすぐできる舞いの形です。

特に、詩や歌曲などと共に舞うと、詩や歌詞の言葉の「形」がくっきりと際立ち、聞き慣れて当たり前に知っていた曲がこの曲ってこんな歌だったのか、と時には涙になるような感動をもたらすことがあります。

影舞では、舞い手は楽曲をほとんど聞いていませんので、歌の心を表現する意図を持つことができません。

にもかかわらず、影舞を見る人は、詩歌そのものの心を普段より深く感じ取ることになります。

影舞とは影間居(影の間に居ること)。
「自分を表現する」から退きあげていく稽古。
静まる(鎮まる)稽古。
「自分」という熱が冷めていく稽古。

舞い手が無垢な在り方で、自分を踊らず、ただそこにいる(間居)と元々の詩歌の言葉やニュアンスが自由になって向こうから立ち上がってきます。

 

(橋本久仁彦さんオフィシャルウェブサイトより)

 

 

「影舞とは影間居(影の間に居ること)」と「古代から日本人は影に光や何かの姿を観て、そこに美を見いだしていた」ことは、どこか通じているようにわたしは思える。

 

おそらく「自分を表現」しようとすることでは現れない美しさが、自己が「影」の空間に在る(たぶんエゴが希薄である)ときにこそ、より色濃く立ち現れてくるのだと思う。しかもその美しさは周囲の人たちが感じとってくれるものであり、本人にはわかりようがない。本人はただ、他者に照らされて自分の影(光、姿)を知っていくということ。このことを主体的ではないとする見方もあるけれど、だれかとの関係性に本気で向き合おうとするならば、それは抗いがたい“事実”だろうと思う。

 

それほどに、わたしたちは生きるうえで“影響”しあわずにはいられない存在なのだということ。だからこそ、二人の影が響きあったときのエゴがブッ飛ぶような官能と美しさに、どうしようもなく惹かれてしまうのかもしれない。