耳を澄ますとき

だれかとの時間、こころに染み入る ことばの記録

目の前の人の言葉によって、自分が生きていることを思い出す。

 

 

我々がただ語り、ただ話す(放す)ことが、実は一大事であること。
そしてそれは「聞く者」がいて初めてアラハレる出来事であること。

 

 

だれかの言葉が長い時間をかけて、ようやく身に沁みてくる、ということがある。

「理解する」というより、文字どおり「身に沁みる」という表現がしっくりくる。

 

非構成的エンカウンターグループを日本人の感性から“円坐”という場として実践してこられた橋本久仁彦さんが語られた、この言葉を耳にしてから数年が経った。円坐の守人(ファシリテーター的な存在)をする際の基礎となるミニカウンセリングで、「話し手」と「聞き手」の空間で起こる実存について語られたことだ。

 

この2年、わたし自身ミニカウンセリングと円坐守人の稽古を続け、10日間にわたる長丁場の円坐も2度経験して、なんとか、ようやく、冒頭の言葉の本義が見えてきたかもしれないという場所にいる。もちろん、それを実践する道はまだまだ途上で、橋本さんが見ている先の景色にさらに近づこうとしているのが今のわたし、かな。

 

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2年前の10日間円坐にて。橋本さんと天橋立の海を臨みながら...

 

数年前のわたしは、長年続けてきた大手雑誌や新聞でインタビュー記事を書くことに疲れ切っていた。締め切りがくるたびに鬱状態に陥る自分がいたたまれなかった。学生時代から現場叩き上げでインタビュー取材のいろはを学び、「売れる」「人目を惹く」キャッチコピーを取りにいくような勢いで著名人に話を聞きにいって質問していたし、聞いた話を誌面の文字数制限のある中で「読みやすい文章にするために編集する」ことは当たり前にやっていた。もちろん、今だってそのように商業雑誌や新聞はつくられているし、だからこそ生じるマスコミの功罪が世間を賑わしていたりもする。

 

 

今はそうした話題性・生産性優位の世界からは距離を置き、親しい友人知人からの取材・執筆のご依頼にお応えするだけにとどめている。そして、インタビュアーを引き受けるからには、できるかぎり丁寧に話を聞かせていただいたうえで、その方の言葉を綴っていきたい.....そんな思いでいる。

 

 

一度はインタビューすること、文章を書くことに燃え尽きた自分がいた。けれど今、円坐で共に座る人たちの言葉に耳を澄ましたり、ブログで自分の思いを表現できるようになるまでに回復したのは、これまで橋本久仁彦さんによるミニカウンセリングのクラスを主催して、“聞く”ということの本質を一緒に探求してきた仲間たちと共有した経験の影響は大きい。

 

 

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昨年のミニカン東京コースの仲間たち。写っていない仲間の面影も感じつつ

 

 

 

今、あらためて2017年の半年間をともにした12人の【15分間の作品】を聞き返している。ひとりひとり語られたことは違えど、15分間に現れたその時の彼らの在りようと世界への眼差しに胸打たれる。

 

自分が何者であるのか、どこに向かって生きているのか、本当は何をしたいのか、どんな愛のかたちを求めているのか......そんな問いを自ら立てながら、とつとつと語っていく中で、彼らは現在から過去、未来へと自在に意識を移ろわせながら視界の解像度を上げ、自分がたどり着きたい場所に向かって舵を切っていく。

 

驚くべきは、こうしたダイナミックな内なる動きを話し手は無意識にやっているということ。聞き手からの質問などいっさいなくても、である。橋本さんのもとでミニカウンセリングをやっていてこの現象に気づいたとき、わたしはそれまで自分がしてきた質問ありきのインタビューの傲慢さに愕然とした。

 

 

話す人がいて、それを聞く人がいる。もっといえば、そのまま聞いてくれる人がいるから、人はようやく自らの繊細な深部を言葉にすることができるのだろう。そして「そのまま聞く」とは、「傾聴」や「共感的に聞く」とは必ずしも同質のものではないということにも、気づきはじめている。

 

 

 

聞き手が話し手の言葉の意味を

積極的に聞き取ろうとすればするほど、

「〇〇さんの15分間」は「曇って」しまいます。
 
ミニカンや影舞の実習で、

「質問する心」や「意味を分かりたい心」が落ちていきます。  


(中略) 


ミニカウンセリングの「15分間」とは

そこにいる二人によって生じる一つの「時空間」のことです。


二人が振れ合って一つの時空に溶け合いその時空が「より本当」になっていく姿は、影舞と同じ景色です。   

 

(中略) 


ただ「きく」だけでよい。


「わたし」はその 「“きく”15分間」 を宣言し、荘厳し、

大切な場所として守る「守人」の役目を、15分間だけ務めます。


15分間の「きく(菊)作り」


個体や物体として、「対象としてそこにあるもの」と理解してきた

「自分」や「他者」が、たくさんの時間や場所が重なっている

「中心のない空間」 であるということ。


個体や物体で 「できている」 この世の中に「15分間」という、

この世に属さぬ「あいだ(間)」や「さかい(境)」の場所を

作り出す 「聞く」 という道往き。


夢と現(うつつ)が幽玄に重なり魅せるこの15分間の風景を、

重なる花弁になぞらえて「菊」と呼ぶ。 


菊作り 菊見盛りは 蔭の人 はしもとくにひこ
   

 

 

大げさに思われるかもしれないけれど、わたしは自分が確かに生きているということを、だれかの言葉や眼差しにふれて強烈に思い出す瞬間がある。彼らが見ている景色の美しさ、感じている喜怒哀楽に胸打たれるのは生きているからこそだ。

 

そうした意味からも、わたしは橋本さんがいざなうミニカウンセリングの時空間をとおして出会う人たちと、彼らが語る世界の在りように強く惹かれる。この感覚は「質問したい心」や「意味を分かりたい心」でインタビューをしてきたときには、知りようがなかった。

 

きっと、もっと深く出会いたいんだ、目の前の人と、そして自分自身と。

それが、わたしがミニカウンセリングや円坐を続ける理由なのだと思う。

 

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