耳を澄ますとき

だれかとの時間、こころに染み入る ことばの記録

言葉はどこからくるのか 〜現れた言葉の奥にあるもの

 

 

おひさしぶりです。

さすがに元旦は休みましたが、年末年始はせっせと働いてました。

 

毎朝、日の出前に起きて(暁の空の、なんと美しかったこと)弁当をつくり、冬の凛とした外気に深呼吸して朝陽を浴び、日が暮れるまで作業に没頭する。一日が終わるころには身体はクタクタに疲れているけれど頭の中はクリアで、夜眠れるようになった。

 

昨年末まで半年近く、体調を崩して伏せっていたこともあり、暮らしのリズムを取り戻すために、しばらく規則的に働くことがしたかったんです。

 

仕事のとき以外は、なるべく丁寧に家事をして、空を移ろう陽光や雲、月星に目を凝らし、一冊の本を繰り返し読んで “言葉” について思いをめぐらせる... そんな感じで淡々と年を越し、心と身体と暮らしを整えていけたのはよかったな、と。

 

 

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平成最後の正月もすっかり明けまして....今年もよろしくお願いします!

 

 

“姿は似せがたく、意は似せ易し”

 

「ここで姿というのは言葉の姿の事で、言葉は真似し難いが、意味は真似し易いと言うのである。普通の意見とは逆のようで、普通なら、口真似はやさしいが、心は知り難いと言うところだろう」(小林秀雄著『考えるヒント』文春文庫より)

 

 

言葉についてちょっとマニアックな話をします。

 

このところ読み返していたのは文芸評論家の小林秀雄氏が書いた『言葉』(上記『考えるヒント』収録)というエッセイでした。江戸中期の国学者本居宣長が歌(万葉集の和歌など)がどのように生まれるかを解き明かすことで、歌詞に欠かせない言葉の成り立ちまで「姿は似せがたく、意は似せ易し」というキーワードから紐解いたことを紹介しています。

 

 

小林さんが指摘しているように「言葉は真似しやすく、意味は真似しにくい(理解しづらい)」というのが一般に多い考え。実際、よく意味はわかっていないけれど、なんとなくその言葉を使って意見をのべることって、まあ普通にあったりします。

 

そこへ本居宣長は、こう断言するんです。

「言葉こそ第一なのだ、意は二の次である」と。

 

 

「言葉にこそ意味は宿る」「言葉にして初めて意味は生まれる」といった文脈でしょうか。じゃあ、はじめに言葉ありき、というその「言葉」とは、いったいどこからくるんだろう。

 

“今しばし

生きなむと思ふ

寂光に

園(その)の薔薇(さうび)の

みな美しく”

 

 

いきなりですが、美智子皇后さまが昨日(1月16日)催された「歌会始の儀」で披露された御歌です。高齢となられ残された人生に向けるご自身の心境を、御所に静かに咲く薔薇を眺めながら詠まれたそう。

 

ふだんは和歌の素養に乏しい人間ですが、たまたま目にしたこの御歌を聞いた瞬間、意味や背景をすぐさま理解したわけでもないのに、じんわり胸が熱くなり涙ぐむ自分がいて驚いたんです。

 

 

いったい何が起こったのか。

歌に詠まれた “言葉” そのものに鍵がありそうです。

 

この現象に、本居宣長が語った「言葉こそ第一なのだ、意は二の次である」の真意が垣間見える気がするのです。再び小林秀雄氏の解説を拝借します。

 

「姿は似せがたく、意は似せ易し。言葉は、先ず似せ易い意があって、生まれたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている」

 

「歌とは情をととのえる行為である。言葉はその行為の印しである。言葉は生活の産物であり、頭脳の反省による産物ではない」

 

「歌の発生を考えてみると、どんなに素朴な情が、どんなに素朴な詞に、おのずから至るように見えようとも、それはただ自然の事の成り行きではない」

 

 

言葉は、いったいどこからくるのか。

 

この問いには「心のうちに湧き上がる人間らしい感情が源泉」だと言えそうです。その上で形なく無秩序で不安定な、喜怒哀楽あらゆる感情を整えることで初めて人に伝わる “言葉” が生まれる。

 

ここで言う「整える」とは、感情を理性で整理して言葉にするといった意味というより、容易に他人には真似ることができない、自分固有の感情や思いに、おのれ自身逃げることなく心から寄り添っていこうとする在り方なんじゃないか。

 

だからこそ、言葉は人と人をつなぐ社会的な “生きもの” に成りえるんじゃないか。

 

であれば、世に「言葉では嘘をつける」なんて揶揄する文脈もけっこう見かけるけれども、いやいやいや、実は “言葉” でこそ嘘つけないんじゃね?って話じゃないか。

 

 

  

言葉は人と人をつなぐ

社会的な“生きもの”だからこそ

本心を隠そうとして

言葉で取り繕おうとすると

自分が発したその言葉から

反撃を食らうことになるかもしれない

 

 

 

だいぶ長くなったので、もう終わりにしますね。

最後にひとつ、上の仮説をぶちこんでおきます(笑)

 

何からの理由で自分の本心を隠す、あるいは見ないようにする行為を言葉を利用して補おうとしている時と、本居宣長が言うところの「生活や経験の産物としての言葉」が現れてくる時とでは、周囲に与える印象や影響はまったく違ってくることに関心があるんです。

 

ここ数年取り組んでいる円坐(いわゆる非構成的エンカウンターグループ)では、自分のありようも含めて、こうした現象がけっこう見られるから。

 

そもそも「言葉はどこからくるのか」という問いと「姿は似せがたく、意は似せ易し」という言葉は、昨年暮れに催した円坐に参加された女性が投げかけてくださったもの。実に感慨深く、面白いテーマをいただきました。

 

 

 理性ではどうにもならない、心の動き。

 

それを “業(ごう)” というけれど、どうにもならないものに突き動かされるままに生きていこうとする、勇気ある人間たちがいるかぎり “言葉” の生命力は増し、この美しい世界と自分をつなぐ架け橋になると思うんです。

 

長くなった勢いで、言葉をめぐる旅でもあるミニカウンセリング(未二観)&円坐の合宿コースの宣伝もさせてもらいます。

 

今年5月〜10月、鎌倉にて半年にわたり月1回、橋本久仁彦さんをお招きしたミニカウンセリング(未二観)と円坐と影舞のお稽古を組み合わせた各回1泊2日の合宿コースを開催します。

 

次回のブログで詳細ご報告しますが、以下コース日程を。

 

まさに「言葉はどこからくるのか」ということを、ご自身の全身で体感し探求されたい男女8名(限定です、会場となる古民家のスペース上、増員はありません)ぜひ、半年間ご一緒しましょう。会場近くの鎌倉の海辺や神社仏閣で、季節の移ろいを感じながら円坐や影舞もいたします。

 

【2019年度 橋本久仁彦とともに鎌倉で過ごす12日間

ミニカウンセリング(未二観)と円坐・影舞 “環の稽古” 合宿コース】

 

第1回 5月24日(金)〜 5月25日(土)

 

第2回 6月28日(金)〜6月29日(土)

 

第3回 7月19日(金)〜7月20日(土)

 

第4回 8月30日(金)〜8月31日(土)

 

第5回 9月20日(金)〜9月21日(土)

 

第6回 10月18日(金)〜10月19日(土) 

 

※ 本イベントは終了しました。 

 

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昨年開催した橋本久仁彦さんによるミニカン東京コースの印象的なシーン。今年は鎌倉を舞台にバージョンアップした合宿スタイルでミニカンと円坐を探求します。