耳を澄ますとき

だれかとの時間、こころに染み入る ことばの記録

EVENT 冬の妙高ふたたび。その命のまま、坐る。

 

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2020年12月、新潟の妙高高原で「寒立(かんだち)の円坐」という場をひらいた。7泊8日の合宿で、その間しんしんと雪が降りつづいた。本気を出した雪国の自然に圧倒されながら、わたしたちは円坐(えんざ)の合間に妙高山を拝みに出かけ、雪中の影舞(かげまい)を奉じることもあった。

 

今年も同じ師走に、同じ妙高高原で5泊6日の円坐合宿をひらくことになっている。

 

円坐とは、その日、その時、その場所で集うことを約束しあった者たちが、文字どおり車座になって決められた時間をともに過ごす。

 

影舞とは、向かいあう二人がたがいの指と指をふれあわせた瞬間から、おのずと生じる動きに運ばれていく自然(じねん)のありようを舞になぞらえる。

 

これらの場を定め、始まりと終わりの時刻をつかさどり、そこで起こるすべての成りゆきを最後まで見守る者を守人(もりびと)と呼ぶ。

 

前回と同じく「寒立の円坐」で守人をつとめてくださるのは  大阪「有無の一坐」坐長の橋本久仁彦さん だ。

 

すごく不謹慎な例え話なのだけれど、かれこれ10年近くおつき合いさせていただいている橋本さんが、もしわたしより先に逝かれることがあったなら、橋本さんのどんな姿を思い出すだろう、と先日ふと考えた。真っ先に浮かんだのは「真剣さ」だった。

 

なにに対する真剣さか。

縁あってふれあった人との関わりあいに対してだ。

 

人との関係は、さまざまな成りゆきを辿る。かたちを変えながら育み続けられる関係もあれば、互いのあいだに筋がとおらないような事態が起きて破綻する関係もある。そして、たとえ関係が壊れるにしても、とおらない筋の正体を自らの目と耳で確かめようと、相手に向かっていくのが橋本久仁彦という人だ。わたしには、そう見える。

 

そんな橋本さんは、かつて在宅介護のすえお母さまを看取られた翌日に、わたしが橋本さんを講師に招いて催した勉強会のために大阪から東京に来てくださったことがある。橋本さんとの場を設けたわたしとの縁、その場につどった人たちとの縁から生まれたご自身の“仕事”に筋をとおされたのだ。「こうしてあの世に逝った母のことを話して、聞いてくれる人がいるとき、自分がどこにいようとも母は一緒にここにいる」と静かに微笑まれていた。生半可な覚悟では口にできないことだと思う。

 

“たしかに円坐はそのとおり、だれでも坐っていいし、なにを言ってもいい、目的もないんだけど、円坐という中身が空っぽで、なにもない美しさをわかるためには、やっぱり命がかかってこないとわからないんだ。

 

 命が、ここにかかってきて初めて円坐が美しいな、と。坐衆という集まった人たちが、その命のままで「いる」「居る」という出来事が生じる。

 

 「だれでもありのままでいていい」というのはカウンセリングやセラピーの現場の基準でいえば、自分の想いや感情のままでいていいという、その人のフィーリングみたいなものを大事にするというレベルにとどまっていると思う。

 

 フィーリングではなく「命のままでいていい」と言い切りたいんだ。そこに生きていてもいいし、死んでもいい、と。そこに生き死にがある。

 

 すると、ただフィーリングがいいからではなくて、良し悪しを超えて「あなたの生き死にと一緒にいてみよう」となる。守人が横で最後まで見届ける、と言ってくれてるわけだから、「わたしの生き死にを見届けてくれる人がいるなら、最後にあなたにもう一歩迫ってみよう」となるでしょう。

 

 そういう守人は、ファシリテーターとは違う。「引導」を渡す者だ。本来のお坊さんとか、西洋でいえば決闘をするときの証人、見届け人。結婚式における牧師さんや神父さんみたいな。そういう立ち位置に近い。非日常的で時間や歴史を超えて存在するものの要素が、セラピーやカウンセリングにはない。円坐守人はむしろ、芸術の舞台や音楽や美術の様式の中に親近性を持っている ”  

 

(有無の一坐  坐長 橋本久仁彦さんインタビューより)

 

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橋本さんが亡きお母さまとの話を聞かせてくれてから4年あまり。今度はわたし自身が母親を在宅で介護しながら、こうして「寒立の円坐」の準備を進めている。体力も記憶も衰えゆく母を残し、わたしは妙高に行けるのか。不安にならないと言ったら嘘になる。いつ突如として終わりを迎えるかわからない、老いた母との時間を大事にしたいのも事実だ。

 

「ぼくらは関係性をとおして生きているんだから、円坐をやるなら、いろいろある、いろいろ起こる、その人の人生丸ごとと一緒に坐るの。ぼくは何かのメソッドをとおしてではなく、丸ごとのアンタと付き合いたいんだ」

 

真っ直ぐな視線で、先日こうおっしゃった橋本さんは、もうすでに「寒立の円坐」の守人であるのだと感じた。今のわたしは、いろいろな状況や思いでごちゃ混ぜな命を晒しているが、そうしてもがきながら円坐に向かう道中を見ていてくれる存在がいる、というのは想像以上に勇気をもらえるのだと痛感した。

 

いろいろあり、いろんなことが起こって、わたしたちの人生はめぐりめぐっていく。その途上で、だれしも少なからぬ孤独を感じ、それでも大切なだれかを想って生きていたりする。が、大切な人の深部にふれにいくにはどうしたらいいのか、独りもがいているうちに人生の大事な時間が過ぎ去っていくことも多い。

 

円坐という場は不思議なもので、目的はなにひとつ無いはずなのに、場が閉じるころには自分と共に坐った人たちの間で、大事な何かにふれあったという感触が残ることがある。それは暖かく感じたり、傷むこともあるけれど、まぎれもなく一緒に生きたという証だ。

 

他者と一緒に生きること、その人にふれたいと望むなら、自分だけの殻を破って外に出ていく勇気がいる。円坐においてそれができるとしたら、わたしたちの有形無形の言葉に耳を澄まし、なにが起きても最後まで見届けようとする守人の真剣な眼差しに、自分のありのままの姿が照らされてこそなのだと思う。

 

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「寒立の円坐」守人をつとめる橋本久仁彦さん。雪の妙高山を背景に。

 

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冬の妙高 寒立の円坐2021

〜守人 橋本久仁彦〜 

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◆開催日程: 2021年12月11日(土)〜12月16日(木)5泊6日

◆開催場所: 上信越国立公園 妙高高原新潟県妙高市

◆募集定員:10名

◆ご参加表明やお問い合わせなどはメールにてご一報ください。

miwa.sugano39@gmail.com

※こちらのイベントは終了いたしました。