耳を澄ますとき

だれかとの時間、こころに染み入る ことばの記録

INTERVIEW 橋本久仁彦さん 「あの人との“生きた時間“は わたしの“死んでいく力”になる」

 

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 2020年からいまだ世界中でくすぶり続けている新型コロナウイルス感染症の脅威。現在、日本では“第5波”が急速に収束し、長らく緊張を強いられてきたわたしたちの間に幾ばくかの解放感が戻りつつある。

 そんなコロナ禍にあって「人間関係のありようが、これまでとは根本から変わってきた」と語るのは、昨年大阪で『有無の一坐』を旗揚げした橋本久仁彦さん。1980年代に『教えない授業』を実践した高校教師として話題となり、以降は欧米の各種カウンセリングやセラピーアプローチ、非構成的エンカウンターグループを長年実践。それらをやりきった後のこの10年は、日本人古来の死生観や人・自然との縁起を大事にする感性に立ち還り、円坐・影舞・未二観といった独自の場づくりとその伝承に尽力されている。

 近く新潟の妙高高原で開催される『寒立の円坐』という長期合宿に臨まれるにあたり、激変したこの一年あまりの世相を総括してもらいながら、移ろいゆくわたしたちの在り方と円坐や影舞への思いについて前後編にわたりインタビューさせていただいた。

 

「あの人との“生きた時間“は わたしの“死んでいく力”になる」

 橋本久仁彦さんインタビュー 

 

 

コロナ禍をとおして円坐・影舞・未二観の存在意義がはっきりした。

 

橋本さん(以下略) この一年半、僕らは新型コロナをめぐって非常にインパクトのある経験をしてきたね。さまざまな組織が機能しなくなって、それまで掲げてきた成長路線を突き進むことができなくなった。目的を失ったわけだ。

 

 人間どうしの関係も外装みたいなものがはがれ落ちて、実態が見えてきた。会いたい人に会えない状況が続く中で、誰との関係がホンマもんなのかも浮き彫りになった。コロナ禍をとおして人間関係がより円坐(※1)的になったんだと思う。目的のないところで、そのまんまの、みんなの生きる動機というか、在り方まで含めて顕(あらわ)になってきた。

 

 コロナによってたくさんの人が亡くなって、遺された人たちは愛する人の最期に手を握ることもできず、アクリル板の向こう側から見送らざるを得ないことを悲しんだ。それは逆説的に、どれほど僕たちが人に触れたがっているか、愛する人のそばにいたいと思っているか。その機会を奪われることがいかにつらいか、ということがはっきりしたともいえる。

 

 何かの“目的“のために人と会うんじゃない。「この人と会って成長するため」「気づきを深めるため」とかじゃなく、今このとき「この人とだけはコロナに罹ってもいいから手を握ってあげたい」とか、そういう人間本来の関係性をまっとうできない残酷さ。昨年亡くなった志村けんさんのお兄さんが語られた「コロナという病気は怖いですよ」という言葉が印象に残っているけど、その“怖さ”は感染症としてより、関係を切られることの怖さをおっしゃっていたような気がするね。

 

 そういう意味では、コロナ禍をとおして円坐、影舞(※2)、未二観(※3)という僕の仕事の本質を再確認させてもらったと感じている。それらの目的をもたない時空間の存在意義が、今まで以上にはっきりしてきたから。

 

 

心に刻まれた「あの人と一生懸命に生きた」という証が死んでいく力になる。

 

 “ワークショップ“というのは、日常の人間関係をより良くするための方法論のなかでお互い出会っていきましょう、という目的で成り立っている。そういう場だから簡単に人と出会えた気になるし、楽しいわけだね。が、今回みたいに感染症が流行すると、みんな行かないようになる。命をかけるほどの意味がないから。さらに行政や周囲の人から密接につきあってはダメと言われると、それだけで行く気がなくなる。他者と関係をもつことの意味が、相対的に落ちてしまったからだ。

 

 今までの人間関係に対する考え方はあまりにも目的志向というか、効率志向だったのだと思う。カウンセリングやセラピー、瞑想でさえも「より良いものを目指す」ためのツールであり、今よりも良くなるという希望や期待に基づいたものしかなかった。

 

 けれどコロナ禍を経た今、人間関係の在り方が従来のそれとは根本的に質の違ったものになってきたと僕は感じる。円坐や影舞では「あんたと俺しか、ここにはおらんのや」「この場は一期一会だ。出会いではなく“仕合い”である」という“真剣さ”で相手と対峙する。未二観なら15分という時間を区切って「これからの15分間はあなたの時間です。わたしはあなたの言葉の“てにをは”まで辿らせていただきます」と、お辞儀をして相手に向かっていく。ここで言う“真剣さ”とは、思想的・福祉的・援助的なことではなく、ましてやセラピー的なものでも全くない。何かしらのスキルやメソッドも抜きにした状態で、丸裸の自分と相手の存在そのものをかけた態度や姿勢を“真剣さ”と言っている。

 

 だからこそ円坐、影舞、未二観は「あなたとわたしが懸命に生きた時間」になるんだ。未二観でいえば、15分間ひと言もしゃべらなかったとしても「せっかく15分間あなたと一緒に坐ったのにドキドキして結局何も言えなかった・・・。けれど目の前に咲いていた桜は確かにふたりのあいだにありましたね」といった心象風景がふたりの心に刻まれる。

 

 この先、もし僕がコロナに感染して独り隔離されることになっても、こういう“生きた時間”を思い出せるんだ。たとえ命が尽きるような事態になっても、そのことが“死んでいく力”になる。まわりには防護服姿のお医者さんや看護師さんしかいなくても、心の中では「あの人と生きた時間」がよみがえってくると思う。なぜならあの円坐、あの影舞、あの未二観では「より良い関係を作るため」といった効率主義の目的や個人的な感情で自分の視界をズラしていなかったから。あのとき確かにそこに在った、そのままの相手と自分をとらえているから。そして、ありのままの姿が死んでいくんだ。

 

 

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 “ありのままの姿が死んでいく”とは、今こうして僕はあなたにしゃべっているんだけど、仮にどちらかが死んだら二度と会えなくなるわけだね。会えなくなる、というのは文字どおり「会えなくなる」ということ。亡くなった人がもっていた資格やスキルとかではなく、その人そのものに会えなくなるということ。

 

 つまり「その人そのもの」が欲しいんだよ、死んでいくときに。だから僕は自分が死んでいくときに、そばにカウンセラーなんていて欲しくない。たとえ大喧嘩した仲だったとしても「あの人とは、やり合ったな!」と、心に深く刻まれた人にそばにいて欲しい。物理的にそばにいなくても、その人の面影を感じて「苦労したけど、あの人と一生懸命に生きた」と思える。これこそが死んでいく準備になる。「成長できた」「いい気づきだった」なんて思いながら死んでいくの、俺はイヤやわ(笑)

 

 あの世に持って行けるのは、だれかと一緒に生きたという証。それが欲しい。たとえ成長なんてできなかった人生でも、人から「最低」と見下されても、たったひとり本当に仕合った相手がいたら、そしてお互いに命を刻み合った実感があれば、「あの人と生きたんやな」と思い出して死んでいける。

 

 そういう生き方や在り方は、いわゆる“withコロナの時代”にピッタリだと僕は思う。

 

 

【脚注】

※1 円坐(えんざ)とは、その日、その時、その場所で集うことを約束しあった者たち(坐衆)が車座になって決められた時間を過ごす。その場を定め、始まりと終わりの刻限をつかさどり、坐衆と坐衆の一人としての自分の声に耳を澄ませて起こる全ての成りゆきを最後まで見守り、ともに生き抜く者を守人(もりびと)と呼ぶ。

※2 影舞(かげまい)とは、その場で向かいあう二人が互いの指と指を触れ合わせた瞬間から、自ずと生じる動きに運ばれていく自然(じねん)のありようを舞になぞらえる。いわば一期一会の即興舞台である。

※3 未二観(みにかん)とは、話し手と聞き手二人による15分間の即興芸術ともいえる。傾聴や共感的に聞くといった既存のカウンセリングスキルとは一線を画する。聞き手はあらゆる判断の未然に在って話し手の時空間となり、そこで生じる有言無言の言葉を最後のひと息まで辿る、という約束を果たす。

 

【橋本久仁彦氏プロフィール】

1958年大阪市生まれ。

大学卒業後は高校教師となり、アメリカの心理学者カール・ロジャーズが提唱したパーソン・センタード・アプローチに基づく「教えない授業」を10年間実践する。

その後アメリカやインドを遊学し、人間同士の情緒的なつながりや一体感とともに発展する有機的な組織作りと、エネルギーの枯渇しない自発的で創造的なコミュニティの建設に関心を持ち続けている。

1990年より龍谷大学学生相談室カウンセラー。

様々な集団を対象とした非構成的エンカウンターグループを行う。

2001年12月に龍谷大学を退職、プレイバックシアタープロデュースを立ち上げ、
プレイバックシアター、エンカウンターグループ(円坐)、
サイコドラマ、ファミリー・コンステレーションコンテンポラリーダンスなどフィールド(舞台)に生じる磁場を用いた欧米のアプローチの研究と実践を積み重ねるも、10年間の活動を終え、その看板を下ろす。

生涯を通じて手掛けてきたミニカウンセリングは位相を進めて「未二観」となり、エンカウンターグループは「円坐」となり、縁坐舞台も「縁起の坐舞台」と成って様式が整い、生死・顕幽の境を超えて不生不滅の景色を展望する三つの終の仕事となった。

仲間も変遷し、この頃は生死を共にする有縁の仲間(一味)と地方へ出稽古に出ることが楽しみ。毎日がこの世の名残りの道行である。

高野山大学スピリチュアルケアコース講師。
円坐守人。影舞人。
口承即興〜円坐影舞「有無の一坐」坐長。

 

 

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EVENT 冬の妙高ふたたび。その命のまま、坐る。

 

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2020年12月、新潟の妙高高原で「寒立(かんだち)の円坐」という場をひらいた。7泊8日の合宿で、その間しんしんと雪が降りつづいた。本気を出した雪国の自然に圧倒されながら、わたしたちは円坐(えんざ)の合間に妙高山を拝みに出かけ、雪中の影舞(かげまい)を奉じることもあった。

 

今年も同じ師走に、同じ妙高高原で5泊6日の円坐合宿をひらくことになっている。

 

円坐とは、その日、その時、その場所で集うことを約束しあった者たちが、文字どおり車座になって決められた時間をともに過ごす。

 

影舞とは、向かいあう二人がたがいの指と指をふれあわせた瞬間から、おのずと生じる動きに運ばれていく自然(じねん)のありようを舞になぞらえる。

 

これらの場を定め、始まりと終わりの時刻をつかさどり、そこで起こるすべての成りゆきを最後まで見守る者を守人(もりびと)と呼ぶ。

 

前回と同じく「寒立の円坐」で守人をつとめてくださるのは  大阪「有無の一坐」坐長の橋本久仁彦さん だ。

 

すごく不謹慎な例え話なのだけれど、かれこれ10年近くおつき合いさせていただいている橋本さんが、もしわたしより先に逝かれることがあったなら、橋本さんのどんな姿を思い出すだろう、と先日ふと考えた。真っ先に浮かんだのは「真剣さ」だった。

 

なにに対する真剣さか。

縁あってふれあった人との関わりあいに対してだ。

 

人との関係は、さまざまな成りゆきを辿る。かたちを変えながら育み続けられる関係もあれば、互いのあいだに筋がとおらないような事態が起きて破綻する関係もある。そして、たとえ関係が壊れるにしても、とおらない筋の正体を自らの目と耳で確かめようと、相手に向かっていくのが橋本久仁彦という人だ。わたしには、そう見える。

 

そんな橋本さんは、かつて在宅介護のすえお母さまを看取られた翌日に、わたしが橋本さんを講師に招いて催した勉強会のために大阪から東京に来てくださったことがある。橋本さんとの場を設けたわたしとの縁、その場につどった人たちとの縁から生まれたご自身の“仕事”に筋をとおされたのだ。「こうしてあの世に逝った母のことを話して、聞いてくれる人がいるとき、自分がどこにいようとも母は一緒にここにいる」と静かに微笑まれていた。生半可な覚悟では口にできないことだと思う。

 

“たしかに円坐はそのとおり、だれでも坐っていいし、なにを言ってもいい、目的もないんだけど、円坐という中身が空っぽで、なにもない美しさをわかるためには、やっぱり命がかかってこないとわからないんだ。

 

 命が、ここにかかってきて初めて円坐が美しいな、と。坐衆という集まった人たちが、その命のままで「いる」「居る」という出来事が生じる。

 

 「だれでもありのままでいていい」というのはカウンセリングやセラピーの現場の基準でいえば、自分の想いや感情のままでいていいという、その人のフィーリングみたいなものを大事にするというレベルにとどまっていると思う。

 

 フィーリングではなく「命のままでいていい」と言い切りたいんだ。そこに生きていてもいいし、死んでもいい、と。そこに生き死にがある。

 

 すると、ただフィーリングがいいからではなくて、良し悪しを超えて「あなたの生き死にと一緒にいてみよう」となる。守人が横で最後まで見届ける、と言ってくれてるわけだから、「わたしの生き死にを見届けてくれる人がいるなら、最後にあなたにもう一歩迫ってみよう」となるでしょう。

 

 そういう守人は、ファシリテーターとは違う。「引導」を渡す者だ。本来のお坊さんとか、西洋でいえば決闘をするときの証人、見届け人。結婚式における牧師さんや神父さんみたいな。そういう立ち位置に近い。非日常的で時間や歴史を超えて存在するものの要素が、セラピーやカウンセリングにはない。円坐守人はむしろ、芸術の舞台や音楽や美術の様式の中に親近性を持っている ”  

 

(有無の一坐  坐長 橋本久仁彦さんインタビューより)

 

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橋本さんが亡きお母さまとの話を聞かせてくれてから4年あまり。今度はわたし自身が母親を在宅で介護しながら、こうして「寒立の円坐」の準備を進めている。体力も記憶も衰えゆく母を残し、わたしは妙高に行けるのか。不安にならないと言ったら嘘になる。いつ突如として終わりを迎えるかわからない、老いた母との時間を大事にしたいのも事実だ。

 

「ぼくらは関係性をとおして生きているんだから、円坐をやるなら、いろいろある、いろいろ起こる、その人の人生丸ごとと一緒に坐るの。ぼくは何かのメソッドをとおしてではなく、丸ごとのアンタと付き合いたいんだ」

 

真っ直ぐな視線で、先日こうおっしゃった橋本さんは、もうすでに「寒立の円坐」の守人であるのだと感じた。今のわたしは、いろいろな状況や思いでごちゃ混ぜな命を晒しているが、そうしてもがきながら円坐に向かう道中を見ていてくれる存在がいる、というのは想像以上に勇気をもらえるのだと痛感した。

 

いろいろあり、いろんなことが起こって、わたしたちの人生はめぐりめぐっていく。その途上で、だれしも少なからぬ孤独を感じ、それでも大切なだれかを想って生きていたりする。が、大切な人の深部にふれにいくにはどうしたらいいのか、独りもがいているうちに人生の大事な時間が過ぎ去っていくことも多い。

 

円坐という場は不思議なもので、目的はなにひとつ無いはずなのに、場が閉じるころには自分と共に坐った人たちの間で、大事な何かにふれあったという感触が残ることがある。それは暖かく感じたり、傷むこともあるけれど、まぎれもなく一緒に生きたという証だ。

 

他者と一緒に生きること、その人にふれたいと望むなら、自分だけの殻を破って外に出ていく勇気がいる。円坐においてそれができるとしたら、わたしたちの有形無形の言葉に耳を澄まし、なにが起きても最後まで見届けようとする守人の真剣な眼差しに、自分のありのままの姿が照らされてこそなのだと思う。

 

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「寒立の円坐」守人をつとめる橋本久仁彦さん。雪の妙高山を背景に。

 

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冬の妙高 寒立の円坐2021

〜守人 橋本久仁彦〜 

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◆開催日程: 2021年12月11日(土)〜12月16日(木)5泊6日

◆開催場所: 上信越国立公園 妙高高原新潟県妙高市

◆募集定員:10名

◆ご参加表明やお問い合わせなどはメールにてご一報ください。

miwa.sugano39@gmail.com

※こちらのイベントは終了いたしました。

 

 

相手の“重さ”を感じて生きる。〜妙高「寒立の円坐」を終えて

 

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コロナをめぐって世界が激しく揺さぶられた2020年が暮れようとしている。

 

今年ほど自分の大切な人たちが、それぞれの場所で “無事に生きている” というだけで嬉しさと有り難みがこみ上げてくるような日々は近年なかった。

 

人とリアルに触れあえない期間をとおして、相手がそばにいないことの寂しさを味わった年でもあった。大切な人と会えない事実を直視するのは、相手の存在の “重み” をしっかり感じるということ。相手と離れていても、自分の中にその人が一人の愛すべき人間として居ることを感じられるのは、実はとても豊かなことなのかもしれない。

 

こういう時、寂しさを埋めようと安易にオンラインで繋がろうとすると、相手との関係において絶対的に大事なポイントを逃しかねないことにも気がついた。

 

 

「現代の人は “他者”を見失ったんだと思う。他者を“情報”だと思っている。だからSNSで穴埋めをする。実際にその人に会えないなら、むしろ会えないことの寂しさをちゃんと感じる。それが相手の尊厳に基づいて大事にしている、ということだと思う。会えない、というのは寂しいことなんだ。その人に会えないというだけで、自分の人生が何か欠けたように感じる。それで当然なんだよ。それが他者の重さ。適当に情報のやりとりをしてSNSで満たしあった気になっているのは “他者不在” だからだと僕は思う」

 

 

こう語るのは、橋本久仁彦さん。長年の教師やグループファシリテーター経験を超えて、非構成的エンカウンターグループを日本人独自の感性から再構築した円坐(えんざ)の守人(もりびと)として全国各地をわたり歩かれている。今回、コロナに翻弄された2020年を振りかえるインタビューに応えていただいた中の一節。

 

 

 

その橋本さんに8日間にわたって守人を努めていただいた新潟・妙高高原で開催した《寒立の円坐》合宿が今月、冬至直前に終了した。

 

年の瀬にむけてコロナ関連の情勢が深刻化する中、感染症対策に出来うる限り取り組み、宿泊先のオーナーファミリーのご協力をいただきながら、各地から集まった十数名の仲間と1週間の合宿を無事に乗り切ることができた。終了から約2週間、幸いにも関係者のみなさんに感染症らしき症状はあらわれていない。

 

  

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「寒立の円坐」守人を努めてくださった橋本久仁彦さん。雪の妙高山を背景に。

 

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妙高入りした日は数日前に降った初雪はほとんど溶けていた。が、この時は翌日から記録的な大雪に見舞われるとは思いもせず、いもり池から仰ぎ見る妙高山にご挨拶。

 

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上の写真と同じ、いもり池。妙高山は見えず。合宿初日から2〜3日で景色は一変。

 

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例年ならば、この良質なパウダースノウを求めて世界各地からスキーヤーが訪れる妙高高原。今シーズンは外国人観光客はもちろん、日本人すら疎らだ。

 

いまだかつてなく、この美しい観光地から人の気配がなくなり、あたりが静まりかえる。ときおり屋根に降り積もった雪が雷鳴のような音をたてて落ち、わたしたちが円坐を繰り返す部屋はどんどん雪に覆われていく。

 

まさに雪に閉ざされたような空間で繰り広げられた数十回にわたる円坐や影舞。そこで起きた人間模様は、えげつない(容赦ない)ほどにわたしたちの本性を浮き彫りにした。

 

どんなにリアルに人と触れ合おうが、どんなに他者を求めていようが、自己の中で相手の重み(尊厳)を見失っているかぎり、その言動はあくまで独りよがりであり、思いは他者に伝わらない、という現実。

 

自戒をこめて、このことははっきり書き留めておきたい。

 

単に自分を見失うんじゃない。相手のことをちゃんと見ようとしないから、自分のことも分からなくなるのだ。これからの時代、もう独り言をつぶやいている時間はない。

 

どんなに不器用でもいい。相手の“重さ”を感じて生きようとする在り方は、自己犠牲ではなく他者を真に愛すること、同時に自分を愛することに必ずつながる。そう在ろうとする人の言葉は、だれかの心に伝わる。わたしはそう強く、信じる。

 

 

わたしたちの行く末は、だれしも独りで死んでいく。だが、これは圧倒的事実でありながらも現実的ではない。わたしたちは独りで生きて死んでいけるほど強くないからだ。

 

わたしたちが生きて死んでいくには、大切な人たちとの “ホンモノ” の関わりあい、愛しあいが必要なんだと思う。ならば尊厳ある相手に伝わるように、まずは自分の尊厳(真実)から言葉を紡いでいく、行動を現していくしかないんじゃないか。

 

まさに名実どおりとなった “寒立の円坐” で、わたしが当事者としても目のあたりにしたのは、他者との関係を真剣に生きることだった。

 

 

最後に、このコロナ禍において本合宿の開催にあたりご尽力下さった関係者のみなさま、そして健康面のこと、ご家族のこと、お仕事への複雑な思いを抱えながらもご参加くださったみなさまに心より感謝申し上げます。

 

想像以上に大変だった2020年最後のご挨拶にかえまして。

 

本年お世話になりましたみなさま誠にありがとうございました。

2021年もみなさま健やかにご自身らしく過ごされることを祈りつつ。

どうぞよろしくお願いいたします。


 

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EVENT 師走の妙高「 寒立(かんだち)の円坐」 のこと。

 

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あれから、いろんなイベントがオンライン化され、外に出れば人との“社会的距離”を少しばかりぎこちなく取るようになった。が、けっこうな頻度でマスクを持って外出するのを忘れてしまう自分もいて、そのたびに「やれやれ」とため息をつきながら、毎晩手洗いする習慣がついた綿のマスクを取りに戻る。使い捨ての市販品は肌がひどく痒くなるから、しばらく前から使っていない。

 

マスク無しで出歩くと身の置き場に困り、人と人が物理的に近づきにくい不自由な世の中になってしまったけれど、この年末、オンラインではなくリアルに「円坐(えんざ)」の合宿を開催する、と決めた。

 

場所は越後富士の異名をもつ妙高山のお膝元、新潟の妙高高原。12月中旬だから雪化粧したお山がのぞめて、暖冬でなければ麓(ふもと)にも雪景色が広がっていると思う。体の芯から温まる源泉掛け流しの温泉と、心もお腹も満たされる素朴な田舎料理でもてなしてくれる家庭的なお宿で、8日間にわたって円坐という場をひらく。

 

すでに今年1月には現地の下見をして宿のご主人とも打ち合わせを済ませ、企画は順調に進むはずだった。が、その矢先に世界中が見えないものの脅威にパニックに陥った。今だって、どんなに気をつけても感染のリスクを拭いきることは難しい。開催を中止するかどうか、悩まなかったと言えば嘘になる。

 

それでも、再び緊急事態にならないかぎり「やる」と決めた。

  

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 円坐(えんざ)とは、その日、その時、その場所で、集うことを約束しあった者同士が、文字どおり円になって座り、決められた時間をともに過ごす。

 

座っているうちの一人(場合によっては二人いることもある)は守人(もりびと)と呼ばれ、場の始まりと終わりの時刻をつかさどり、円の中で語られるすべての人の言葉に耳を澄まし、そこで起こる誰かと誰かの成り行きを最後まで見とどける。

  

一般のワークショップやセミナーのように決まったプログラムがあるわけじゃない。守人がファシリテーターや講師、セラピストのように参加者たちを一定の目的のために気づきや成長、癒しを促すこともない。

 

ただ、ひたすらに、その時、その場で無秩序的に交わされる参加者たちの言葉を、なんなら発しようとして飲み込んだ言葉の面影まで、彼らの存在からほとばしる有形無形の一言一句を聞き逃すまいと耳を澄ませる。

 

そうした中で何が起こるのか。正直、だれにも分からない。

 

分からないけれど、少なくともわたしの経験では、そこでかかわった他者とのやりとりをとおして、自分の本性があらわになる。相手のそれも目撃することになる。

 

人と人が本気でかかわり合えば、美しさもあるが胸がヒリヒリするような場面だって当然ある。だから円坐が「怖い」という人は少なくない。

 

けれど、一方で「怖い」と感じながらも、円坐に来続ける人も少なくない。怖くても、その身そのままの自分で、だれかと互いの存在の重みを実感し合える機会を、わたしたちは実は欲しているのかもしれない。それは、本気で愛し合える相手を求めることに似ている、とも言える。

 

 

コロナの時代、「リアル」なやりとりに制約が課せられ、あらゆるイベントにおいてオンラインにおけるリアリティが追求されはじめた今、こんな“泥くさい”人間論的な話は時代遅れだろうか。

 

いや、オンラインとかリアルとかいう二極的な視座自体が、もはやさほどの意味を持たなくなってきていることを、わたしたちは薄々感づいているんじゃないか。

 

オンラインだろうが、リアルだろうが、もう関係ない。

社会的距離があろうがなかろうが、本当はもう自他共に嘘も虚勢も直感的に分かってしまうのだ。これまでただ、見ない振りをしてきただけのこと。

 

自分は本当は何を大切にしたくて、だれと一緒に生きて死んでいきたいのか。

そう感じる、自分とは何者なのか。

大切に想う他者との真剣なかかわりをとおして、自分の本性や本音を知る。

 

それをあえてリアルな接近空間で、やる。

 

 

円坐でそれを知れるかどうかは個々人の在り方によるし、そういうのは重いし面倒くさいし知る必要あるの? というスタンスも全然アリだと思う。わざわざ自分から円坐に足を運んでおいて怒り出す人もたくさん見てきた(かつてのわたしもその一人。笑)

 

どんなキッカケであれ、どんな感情や感覚を抱いたのであれ、8日間という長い円坐に飛び込めるチャンスは、今年これ1回かぎり。宿泊施設内での“社会的距離”を保つため、募集定員を減らして参加者を募っています。

 

気になって仕方がない方は、脆くて強い生身の人間のまま、マスク持参で冬の妙高までいらしてください。

お待ちしています。

 

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最後に、この円坐合宿のタイトルにある「寒立(かんだち)」とは、寒い冬の日に山の崖っぷちにカモシカが長時間じっと立ち尽くしている「アオの寒立ち」という行動からヒントを得たもの。

 

「アオ」とは、またぎ(山間部で古い猟法を守って狩りをする狩猟者)の言葉でカモシカのことだそう。カモシカは好奇心が強く、人間のこともさほど怯えないという。

 

野生の彼らの寒立ち行動も、深い森を彷徨う者たちの動きをじっと辿って(観察)しているのかもしれない。円坐にのぞむ人々の姿に、重なるところがありそうです。

 

 

2020年12月12日(土)〜19日(土)7泊8日

【冬の妙高8日間  寒立の円坐 〜 守人 橋本久仁彦〜】

 

※本イベントは終了しました。 

INTERVIEW 僕ができてきた場所 橋本久仁彦さん

 

はじめに

【この記事は15分間のミニカウンセリング(未二観)形式でインタビューした内容を語り手の言葉はもちろん、周囲から聞こえてくる様々な音(人の話し声や自動車が通り過ぎる音、鳥や動物の鳴き声など)も含めて精密に記録し、そのうえで公開記事として必要と思われる編集をくわえた実験的な言葉のヒューマンドキュメンタリー作品です。

 インタビューの際、聞き手兼ライターである私はあえて語り手に質問せず、ただただ、その場をご一緒させていただくことに徹した。おのずと語りだされるその人の話を、そのまま最後のひと言まで聞かせていただこうとするうちに、ところどころ語り手のある言葉や発するエネルギー感に引き寄せられるように、同じ言葉を口にする自分がいた。それはカウンセリング技術としてのレスポンスとか、共感したからというわけでもなく、たとえば同じ時空間に在る2つの物質の振動が、なんらかの作用で共振する瞬間に近いような気がする。

 ひとつの作品として記事を公開するにあたり、この何らかの共振時に聞き手が口にした言葉までは明記しない。が、それは記事にしていくプロセスで、おのずとタイトルや小見出しになっていくような、語り手が見ている世界のキーワードとしての “圧” をもった言葉であることに後々気づくことが幾度もあった。

 記事執筆にあたっては、読者の意識をある方向性にいざなう編集や演出につながる書き手の意図(職業的にライターをやってきた者であれば誰しも身に染み付いているスキルであり、決して悪いものではないけれど、あえてこのインタビュー連載では外しておきたい)の出現に気づいたら、いったん立ち止まり思考をリセットして、インタビュー時に語り手と聞き手がいる時空間で起こった流れに両者が “運ばれていく”様子を、文章で再現するのに最適と思われる編集と演出のみおこなった】

 

 

 

「僕ができてきた場所」 橋本久仁彦さん

〜鉄橋をわたる電車の音とカモメの声が響く運河のほとりにて。

 

 

2019年2月下旬、大阪市の西部を流れる木津川支流のほとり。古くは毛利水軍織田信長軍の兵船を破った河川の要衝であり、豊臣家の軍船停泊所が造られてからは江戸時代、近現代にいたるまで運河として工場街に暮らす人々を支えてきた川の一部だという。近くに架かる鉄橋からは電車の通過音が響いてくるほか、大阪湾が近いこともあってカモメの姿も多く目につく。その日は時おり強く吹きつける北風が肌に冷たく、春の訪れはもう少し先であることを予感させた、薄曇りの午後3時過ぎ。この地が「僕ができてきた場所」のひとつであるという、円坐や影舞を長年実践されてきた橋本久仁彦さんにミニカウンセリング(未二観)形式でインタビューさせていただいた。

 

  

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 聞き手からひと言  本日はありがとうございます、貴重なお休みの日に。わざわざ(関東から)出張ってまいりました。では、これからの15分間は、くにちゃん(橋本久仁彦さんの愛称)のお時間とさせていただきます。わたしにとって、ここは初めての場所なんですが、くにちゃんにとって縁(ゆかり)深い場所に連れてきていただきながらのミニカン的インタビュー。非常に楽しみです。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

この街の喧騒、そのリアリティと同じように生きてきた自分

 

 

橋本 はい、よろしくお願いします。今、アジャンタ(聞き手の愛称)にとっては「初めての場所」と聞いて、ちょっと新鮮で。そりゃそうだ、もっともだ、と思ったんだけど。なんか(まだ)しゃべってないんだけど、すでに自分が話す風景の中にアジャンタが入ってくれていて。今日は僕の縁の場所に行くって言った時点で、そしてこうして来て...(大きく息を吸う橋本さんの横顔の向こう側で、鉄橋を電車がわたる音が響く)ここへ来たことの大事さ、大事さかな....

 

だいたいこういうところに連れてくるって、家族か、つきあってる人でしょ(笑) でないと連れてこないよね。なんか知ってほしい、と。自分のこと知ってほしくなった段階の、つきあってる人を連れてくるもんで(笑) つきあい始めは梅田とか難波(どちらも大阪の繁華街)に行くけど。だんだん親しくなってきたら、やっぱりお互いの、あんまり人を連れていかんけど懐かしい場所とか、自分の育った場所.....自分ができてきた場所っていうかな。

 

そういう場所ね(ふたたび電車が鉄橋をわたる音)ちっちゃい時もあの電車の音を聞いて、このあたりにいた気がする。そういう自分が小さい頃から今まで、という....なんか、それが自分のすべてだと思う。自分というものが “我” をつくってきたわけだけど、その、たぶん、あと何年か、何十年かしてね、僕が死ぬとき、寝たきりになったときに、いろいろ思い出すときに、必ずやこのことを思い出すだろうし、それは一人でというよりは家族とだったり、アジャンタと来たり、そういうのをアルバムめくるように思い出すと思うんだよね。

 

(同じ川べりを歩く男子高校生たちの笑い声が響く)

 

それが自分の中身だと思うんだよね。うん、僕自身はボケていったり、死ぬときに...まだ死んでないからどうなるかわからんけど、まあそういう記憶からはおそらく離れるというふうに思ってるんだけど、この橋本久仁彦という呼び名で、父親と母親、特定のね、親に思われて、特定の場所に、そしてこの時代に生まれたから(工事中のマンションからカンカンカンという金属音)こういうふうに生きるしかなかったという自分の履歴というか、跡というか(鉄橋を電車がわたる音)うん、自分のかたちがね(ここに)あって。それが大事だと思うんだよね。

 

僕は瞑想とかも関心があって勉強したけど、あとセラピーもね(少しの沈黙)僕にとっては、瞑想的であるということは(近くの幹線道路を通るバイクの強いアクセル音)他のまわりのもの、まわりの音(強い北風の音)車やら電車やら、そういう音、喧騒....聞こえてくる街の喧騒、このリアリティと同じように生きてきた自分ていう。

 

これを言葉にしたら “表象”って言うんですかね。言葉で、こう音のかたちにしてアジャンタに伝えるとイメージのように伝わるわけだが、イメージが伝わるとしたら(鉄橋をわたる電車の音が響くなかで)形はないのに、ある種の映像としてアジャンタは受け取ってくれるわけで。もし映像として受け取ってくれてるとしたら、それって(映像は)光と影でできているから。たとえば映画って光と影が集まってできているでしょ。実際にはスクリーンしかないのに、そこに光と影をあてることで、まるでそこに人がいるように見えて僕らはドキドキしたりするわけだ。

 

ある種の説明の仕方だと「そこにはスクリーンしかないんだから、そうやって映像を観てる姿は “幻想” だ」というふうになる。でも、そういう言葉を使うのは...(少しの間合い)早すぎるというか、そういう言葉を使う人もいるが、僕自身は “幻想” がそこにあるということを、すごく大事に思っているんだよね。

 

 

 僕は “幻の力”って凄いなぁと思ってる

 

われわれが幻想だと思うんだけど。つくり上げてきているからね、この幻想を生きているから。人間て面白いというか(うしろの小道を「あははは」と笑い声をあげて通りすがる、さっきとは別の男子高校生たち)この幻想を外すと人間ではなく他のものになるわな。で、そうした “人間” に(僕は)惹かれるところがあって。

 

小学生のとき初めて梅田にシネラマ式の映画館ができて、音とか立体的に聞こえて。今はもう3Dっていう時代ですけど、(当時観た映画では)こう、音が向こうから(スクリーンの奥から)汽車が来たらブワーッと煙が立って。そのとき(観客の)おばあさんたちが思わず手で口をふさいだという(苦笑)そういうウリの映画があってね。

 

ほかにも(米国俳優の)メル・ギブソンイエス・キリストの映画を作ったことがあって(『パッション』2004年公開)キリストがこう、かなり残酷に拷問受けるシーンがあって。それを観た老婦人が心臓マヒで死んだ、とかね。そうすると(映像は幻想だという考え方からすると)その人は白いスクリーンに映ってる“幻”を観て死んじゃったことになる....(少しの沈黙)

 

僕自身はこの“幻の力”って凄いなぁと思っていて。みんな、この幻で死にもするし(近くのビルの駐車場から車が出庫されるときの注意喚起ブザーが鳴る)話はいろんなところに行くけど(医療の現場では)普通は患者に麻酔をかけて手術をする。でも中国の気功などで治療する人はイメージを使う。患者に「あなたの右手は肘までバケツの水に入っています」とか「そのバケツには氷がいっぱい入っていて、コロンコロンという冷たい氷の当たる音も聞こえてきます」なんて言っているうちに、患者の血流が落ちて皮膚の表面温度も下がって。それで手術するということに使われたりもするから...

 

(カラスやカモメの大きな鳴き声が響く)

 

僕自身は、このイメージ(幻)というのは瞑想で簡単に....その“抜けられる”みたいな考え方には反対で、むしろこのイメージと幻想によって世界はできている、と。(ゴーッと強い風の音)で、そのことに敬意を払いたい。「幻想は危ない」みたいな考えには、あんまり与(くみ)したくない。「この世は幻想だ。真実はある。だから瞑想するんだ」とか、それを一番最初に(悟って)言った人ならまだしも、誰かの後追いで言っているとしたらそのこと自体.....二重写しの鏡みたいな幻想に思える。

 

僕にとっての真実は「幻想はある」ってことなんだよね。この幻想で、映画を観てて心臓マヒを起こす人もいるし、汽車が向かってくるシーンを観て(煙の映像に)コホンコホンと咳をする人がおったりね。そういうおばあちゃんたちが大好きなの、なんか知らんけど。もうこれ理由なく掛け値なしに、大好きなの。

 

そりゃそうだと思うわけだ、この幻想だって(そのおばあちゃんたちにとっては)本当に見えるから、それを一生懸命に生きるということで、幻の人生を生きているとしても、懸命にこう喜怒哀楽で生きてるという.....そこに懐かしさを覚えるし、そこが僕の居場所だし“ふるさと”だと思うし、仲間たちはそこに大勢いるという。

(カラスやカモメの鳴き声、スズメたちの高らかなさえずりが響く)

 

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それで、自分(のこと)に戻ってくると、ここで(こうして)鳥の声聞いていて。これは2年前に死んだおふくろと、ここに座って聞いていたような鳥の声で。本当に聞こえる鳥の声とか川とか、ガタンガタンと電車が走る音とか、このリアリティと同じように隣におふくろがおって(カラスがカアカアと鳴く)おふくろと生活のことを語り、体調のこと語ったり、最近のこと語ったり、時には妹もここにおることもあって。

 

妹とはよう喧嘩して、妹の言うことにカアッとしたり。しばらく時間が経つと(鉄橋を渡る電車の音)おふくろは、また死んだおやじのことしゃべったり、さらに話題が広がってうちの息子の小さいころのことしゃべったりね。時間がどんどん広がって....

 

 

幻想がそこに在ってくれた、と

敬意をもって頭を下げることで初めて幻想を後にできる

 

 

そうすると、うちの息子が小さいときも、そこの橋のところまで息子を連れていったことがあった....そういうことも思い出したり。その電車の音なんかはリアルで、今(そこを通った)のは今ある電車なわけなのに、僕の中では息子がまだ4歳とか5歳のときだから20年前の電車の音と、やっぱり重なって聞こえてくる(電車が通過するゴーッという音がますます響く) で、これを“幻想”というふうに言ってほしくないんだよね。

 

(突如、近くで救急車のサイレンが鳴りだす) 

 

それはそう(幻想)かもしれないけど、この思いの中で僕は生きてきてるし。この思いがないと“橋本久仁彦”というものがトータルに崩れてしまうから。僕自身は瞑想とか、悟りとか、成長とか、自己実現とか、エンライトメントとか....そういうものに、本当に僕自身が価値があると思って、本当にそれを見たいと思うなら、本当にエンライトメントというか悟りとかは....人間の到達すべき....あるいは人間の本来の姿だと思うし、一度生まれた人生だから(その境地に)触れたい(救急車のサイレンますます大きく)と僕は思っているが、そう思うなら逆説的ではあるが、この幻想というもに敬意を表したい、この幻想を生きているという。

 

しっかり幻想を幻想したい....自分自身が丸ごと幻想でできているという、この了解なくしては目醒め(悟り、エンライトメント)には到達しないと思うね。自分自身が丸ごと幻想である、幻想でできているということ。そこ(幻想)から外れるためにとか、悟るためにとか、気づくためにじゃなくて(ここで15分経ったことを知らせるタイマーが鳴る)幻想そのものをね、そこに在る....と、あらしめたい。それが僕にとっては「幻想に目覚める」というか、幻想がそこに本当に在ってくれた、と敬意をもって頭を下げることで初めて幻想を後にできる、と。

 

(一羽のカモメが私たちが座るベンチ前の柵に降り立ち、聞き手のわたしが「15分経ったことを告げに来たかのような」と思わずつぶやく)

 

ほんとうやね。(橋本さん、手にしていたビニル袋からスナック菓子を取り出しカモメに与える)じゃあ、次の場所に行こうか。インタビューって面白いね、なんか関心あるな...

 

 

【橋本久仁彦さん / 1958年大阪生まれ】

大学卒業後、教育現場で「教えない授業」を10年実践されたのち、数十年にわたり欧米のさまざまなカウンセリングやセラピーアプローチを探求されてきた。なかでも生身の人間どうしの有機的な “出会い” を見届けていく非構成的エンカウンターグループにかけてこられた時間と熱量は、わたしなどの想像の域を超える。近年ではそのエンカウンターの場でさえ「やりきった上でなお、肚落ちしていない自分がいた」(ご本人談)という。そして、より日本人としての感性に立ち還って人間主体の世界観を一度手放し、生活環境(自然)や人生の予期せぬ出来事の中でこそ、初めて生かされる人間の有り様を見つめていこうとする独自の場づくりをデザインしてこられた。

それが【円坐】という場であり、そこに集う人たちがたどる道往きを見守る者を守人(もりびと/エンカウンターグループでいえばファシリテーター的立場)と呼び、その在り方として大切な、目の前の人の話を“そのまま聞く”ことの研鑽となるミニカウンセリング(現在は「未二観」と呼ばれている)のクラスも提供されてきた。

 

 

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New Beginning 〜 春分、新しい始まりを予感するとき

 

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イーグルよ…
空高く飛べ
大いなる存在にまで届け
 


おまえの聖なる力を分けておくれ
わたしに触れ、讃えておくれ
おまえの存在を気づけるように
  


Medicine Cards, Jamie Sams &David Carson
  

 

 


新しい始まりを予感するとき
心が弾む反面、
けっこう怖かったりもする。
  


ただ、今のわたしは
この未知への怖さを
喜びや幸せになることへの“抵抗”だと、
決めつけたくない感じがしている。
  


なんらかの分析法で
決めつけたくないんだ、
自分の感情や感覚を。
もっと純粋に味わいたいんだ、
自分の中から生まれる
あらゆる思いを。
  


その上で、こんなふうにも考えてる。
  


ときめきも、怖さも、
どんな感情であっても
今の自分が何者で、
どこに向かって
行き(生き)たがっているのかに気づく、
めちゃくちゃ大事な
道標みたいなものだって。
  


でももし、
怖さや不安でいっぱいになりすぎて
身動きでなくなってきたら、
わたしは
イーグル(鷲)の眼差しを
思い浮かべるようにしてる。
アメリカ先住民の知恵に助けてもらう。
  


いったん呼吸を整えて
自分をとりまく状況そのままを
真っ青な空から俯瞰してみるイメージ。
  


鷲はどの鳥よりも空高く飛翔し
世界を悠然と見渡しながらも
地上を行き交う
者たちの動きを鋭くとらえ
その時がきたら
迷いなく狙いを定めて地上に降り立つ。
  


そうした姿、在りようから
先住民の人々はイーグルを
グレートスピリット
(大いなる存在)とつながる
聖なるメッセンジャーであり、
世界や物事の本質を【観る者】と信じた。
  


生きとし生けるものたちの
つながりを現した
ネイティブアメリカン
メディスンホイール
(聖なる生命の輪)でも
イーグルは
新しいものが誕生する
東の方角を守る
トーテムアニマルでもある。
  


そんなイーグルのメディスン、
聖なる力とつながれる
パワフルな機会が
もうすぐ、やってくる。
  


春分の日、満月が昇るころ。
聖なる生命の輪を再現して、
東のスピリットと
イーグルのメディスンに祈り、
わたしたちそれぞれの春、
New Beginning(新しい始まり)
に向かうエネルギーを受けとります。
  


*****************************
  

2019年3月21日(木・祝日)春分の日開催!

 

マザーアース・エデュケーションPresents

アメリカ先住民の儀式を受け継ぐ松木正と祈る
平成最後の“春分満月”スペシャル・セレモニー
春分から夏至へと続く再生の道
魂からの呼び声(Calling)を聞け!
Hero & Heroine's Journey 序章〜

 

※ 本イベントは終了しました。 

 

 

 

Calling 〜魂からの呼び声を恐れるなかれ 2

 

 

少し前、夜明け間際の空に浮かぶ三日月の下にひときわ輝く星があった。明けの明星、金星。目立つ光だから一瞬、目を奪われる。が、実のところ気になっていたのは、その近くでひっそりと光る、でも存在感のある星のほうだった。天体図を調べたら木星だとわかった。凛とした冬の空気に深呼吸しながら眺めていると、胸にわきあがってくる思いがあった。言葉になっていくそれを逃したくなくて、急いで書き留めた。

  

 

どんなに、ささやかでもいい。

どんなに、ひっそりとでもいい。


どんなに、今いる “そこ” にも居場所を見つけられなくて

社会の片隅に独りでいるように感じられても、いい。
  

それでも、生きてみる。
日々の営みを、丁寧に。
  

その暮らしのなかで響いてくる “声 ” に耳を澄ましてみる。


きっと聞こえてくる、すぐ近くで自分を呼ぶ声が。
  

夜明け前の細い月に目を凝らせば、そばで目立つ明星(金星)より

繊細な光を放つ木星のほうが月のすぐ近くにあった、と気づくように。

 

 

 

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自分の中からあふれ出た言葉に、あとで自分自身が勇気づけられていた。

 

あの朝、木星の光に気づけてよかったと思う。目覚める時間がわずかに遅かったら、繊細な輝きは朝焼けに消えていた。たとえ他よりも、ひっそりとした光(存在)に見えたとしても、その輝きに気づけたこと自体が実は幸せで、その日一日を生き延びられる力になったりする。

 

  

 

それでも、生きてみる。

 

 

 

それでも、生きてゆく』というテレビドラマが昔あった。わたしにとっては神作品で、題名からもわかるように物語を紡ぐ数々の台詞(言葉)がもつ力強さに励まされてきた。ただ、今、その言葉を口にしてみると、「それでも、生きてゆく」と言い切ることに微妙な違和感を覚える自分と出会う。

 

 

 

それでも、生きてみる。

日々の営みを、丁寧に。

 

 

 

ちょっとしたニュアンスの違い。それでも「生きてゆく」ではなく「生きてみる」ことが今のわたしの精一杯で、自然に呼吸ができる場所なんだと、言葉にしてみて自覚した。たまたま今、胸を張って「生きてゆく」とは言えないけれど、日々を丁寧に「生きてみる」ことならできる、と。

 

これまで「生きてゆく」と言い切れないときの自分を、ずいぶん責めてきた。しっかりできないことを誰かに責められることが怖かった。

 

けれど今、たとえ自分がどんな状態であれ、その瞬間の自分のリアリティを誤摩化さずに向き合うことで見えてくるもの、聞こえてくるものが、実はものすごく重要であると知った。

 

たとえ世界の片隅に独りでいるような気持ちでいたとしても、そのままの自分から「生きてみる」ことを何度も、何度も、何度でも思い出しさえすれば、実はずっと前から通奏低音のように、何かの雑音のように自らの奥底から響いていた、魂からの呼び声(自分の真実からの声と言ってもいいかもしれない)に耳を傾ける勇気が湧いてくる。そのうえでわたしたちは、本当にそうなりたいなら行きたい(生きたい)場所に行けることを知った。

 

 

その暮らしのなかで響いてくる “声” に耳を澄ましてみる。

きっと聞こえてくる、すぐ近くで自分を呼ぶ声が。

 

 

最近、この “自分を呼ぶ声” の存在にはっきり気づく直接的なキッカケをくれたのが、前の記事でも紹介した北米先住民(ネイティブ・アメリカン)と縁の深い松木正さんだった。

 

松木さんは人生のある時期に、自分を冒険の旅にかきたてる呼び声が聞こえてくる瞬間があること。それは誰の身にも起こりうる、自分の真実を生きる旅「Hero & Heroine's Journey 」の出発点であることをインディアンの世界観や知恵を通して教えてくれる人だ。

 

ajanta-miwa.hatenablog.com

 

 

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北米先住民ラコタ族の伝統を受け継ぐ数少ない日本人、松木正さんの第二のふるさと米国サウスダコタのインディアンゆかりの地を旅した日々が懐かしい

 

 

その人がどれだけ頭の中で考えて

合理的に慣れ親しんだ安全な

「今までの世界」にとどまろうとしても

二つの世界の間にある境界線=Edgeに向かわせようとする。

恐怖を伴わせてね。


日常の現実をカタチ作っている

もっとも深く心の中で合意して

脳の中に刻み込まれていたBeliefを手放して

「広がる世界」に向けて冒険に出ようといざなってくる。


もうごまかしがきかなくなってくるんだ・・・。

脳がザワザワする・・・。

とどまろうとする自分に違和感を感じてしまう。

アラームが鳴っている。

目覚めろ!

ってね。

 

by マザーアース・エデュケーション 松木

 

 

ここに書かれているアラームこそ、魂からの呼び声 “ Calling ” なのだと思う 。

 

わたし自身、アラームが鳴りまくった大きな転機が、松木正さんと出会ってからの12年間で幾度かあった。今も、またひとつの大きな変化の過渡期にある。

 

この12年、干支も一周まわる時間をかけて(いろんな冒険の旅を経て)ようやく自分が自分らしく息ができる場所に着地できそうな感じがしている。そこに着地していく中で怖いこと、不安なことはたくさんある。けれど、それらに勝る熱量で、不完全でもいいから一度はあきらめた「わたしにしか表現できない世界観、文体を手にいれる」という挑戦を再びはじめた自分がいる。

 

世に素晴らしい文筆家が大勢いることを思えば、壮大なテーマすぎて正直目眩がしてくる。自信なんてぜんぜん、ない。けれど、たとえ「生きてゆく」と胸を張れなくても、怖くても不安でも、いつだって自分にとってリアルな「今いる場所」から、魂が求める道に一歩踏み出すことはできるってことを松木さんは思い出させてくれた。

 

大丈夫。

“怖い”と感じたら“GO”だ!

 

ってね。そして一緒に泣いたり笑ったりしながら旅の“伴走”をしてくれた。

 

だからこその「魂からの呼び声を恐れるなかれ」なんだ、と今ならわかる。

 

怖くても、大丈夫。

 

それでも生きてみて、一歩だけでもいい、足を踏み出してみることからはじめれば、かならず何かが動きだす。

 

 

 松木さん写真提供:マザーアース・エデュケーション)

 

 

松木正さんとのコラボレーション企画ご案内】

 

2019年3月21日(木・祝日)春分の日開催!

マザーアース・エデュケーションPresents

アメリカ先住民の儀式を受け継ぐ松木正と祈る

平成最後の“春分満月”スペシャル・セレモニー

春分から夏至へと続く再生の道

魂からの呼び声(Calling)を聞け!

Hero & Heroine's Journey 序章〜

 

開催日:2019年3月21日(木・祝)

時間:12時開始〜19時終了予定

会場:横浜市緑区 JR横浜線中山駅」徒歩4分【Tama Cafe】

内容:ラコタ族に伝わる7つの儀式の一つ

「ロワンピ」という歌と祈りのセレモニーを

春分というパワフルな日にあわせて現れる

満月のエネルギーに乗せて行い、

新年度さらには、天皇の世代交代という

日本人のメンタリティにとって

大きな変化の流れとシンクロしながら

参加される一人ひとりの祈りと真の願い、

そして新しい自分へのコミットメントを

グレートスピリットに届けます。

 

 

 

 【関連企画  スペシャル・リトリート】

2019年6月14日(金)〜6月16日(日)清里高原にて開催!

春分から夏至へと続く再生の道 Part2

Hero & Heroine's Journey 本編

【大地に根づいた男と女に生まれ変わる 

スウェットロッジ・リトリート】

 

日程:6月14日〜6月16日(2泊3日)

会場:山梨県清里キープ協会の森)

内容:これまで女性限定で開催してきた

菅野美和(アジャンタ)主催による

松木正氏のスウェットロッジ・リトリートを

今年から男女ミックスの場として再編成!

魂の呼び声(Calling)にしたがって

清里につどった大人の男女が

それぞれの「わたしがわたしになっていく旅」

つまりヒーロー&ヒロインの旅に共に船出します。

そのプロセスでは、

男と女が本音で語り合ったり、

男性性や女性性をそれぞれ見つめ直す時間があったり、

がっつりドリーミング・ジャーニーの時間もとりながら

自分の中心に還り

大地に根づいた男と女として生まれ変わる

特別なスウェットロッジ・セレモニーをとおして

新しいアイデンティティを手にいれた

男女として出会い直していくリトリートです。

 

 

 

※ これらのイベントは終了しました。