Calling 〜魂からの呼び声を恐れるなかれ 1
“ Don’t be afraid to talk about Spirit!”
〜 魂を語ることを恐れるなかれ
このことを単なるスピリチュアルな言葉としてではなく、日常のリアリティにしっかり足を根づかせながら実践していくことを教えてくれた人がいる。
決して大げさに語るわけではないのだけど、感覚や感情がほぼ凍りつき、文字どおり死んだように生きていたわたしが、かつて、いた。けれど、あのとき、なけなしの力を振り絞り、相当ビビりながらも、いわゆる “Calling” の導きにしたがった先で出会ったのが、その人だった。もう12年のおつきあいになる。
冒頭の言葉そのものは、アラスカ先住民クリンギット族に伝わる神話の語り部、ボム・サムさんによるもの。その本を手に取った経緯はまったく覚えていないけれど、ドキュメンタリー映画『地球交響曲(ガイヤシンフォニー)』シリーズを制作している龍村仁監督が書かれたエッセイ『魂の旅 〜地球交響曲 第三番』(角川書店刊)に綴られていて、強く印象に残った。これも12年前のこと。
同書は、映画『地球交響曲 第三番』撮影開始の直前、監督のもとに出演予定者であった写真家の星野道夫さんがヒグマに襲われ急逝したという訃報が届くところから始まる。
それからは映画本編でも描かれているように、上の言葉のボムさん含め、星野さんと親交の深かったアラスカの友人らが亡き友への思いを語り継ぐかたちで、死しても終わらない “星野道夫の魂の旅” を壮大なスケールで綴っている。
以来、すっかり星野道夫さんの写真や文章の虜(とりこ)になってしまったわたしは、彼の膨大な著作を何度も、何度も、何度も、それこそ何かに取り憑かれたように読み漁った時期があった。
その最中に出会ったのが、星野道夫さんのこともよくご存知だった、北米先住民にゆかりの深い松木正さんだった。

松木さんはアメリカ・サウスダコタ州の大平原で生きてきた先住民ラコタ(スー)族の子孫たちと長年暮らし、彼らから受け継いだ伝統儀式と深い知恵を、生きづらさを抱える現代の日本人に伝えている。精悍(せいかん)で男くさく、それでいて瞬時に人を包み込んでしまう無邪気な笑顔をみせる。
わたしは松木さんに初めて会ったとき、ほぼ半日、コップの水があふたように泣きじゃくってしまった。理由はわからない。ただ涙が止まらず、まわりの人たちに何度も謝りながら、泣き続けているしかなかった。
そして、涙が枯れきったわたしに松木さんは静かに微笑みながら、こう言った。「みわぞー(当時のわたしのニックネーム)みんなにいっぱい謝って、いっぱい泣いとったなー」と関西弁で一言いうと、目を細めて空を見上げた。さっきまでのわたしの姿を、そのまま言葉にされただけなのだけど、その瞬間こわばっていた身体がフッと緩み、深く息がつけたことを覚えている。
泣いた理由を問うでもなく、心配したり、問題化して解決しようとすることもなく、ただわたしのそのままの姿を見守ってくれたことが新鮮だったし、なにより、救われた。
今、一方でわたしは非構成の場を探求しているけれど、松木さんはがっつりプログラムをやる人だ。がっつり一緒にいてくれる感じがする。それでも松木さんのファシリテーションに操作性を感じたことは、わたしにはない。その理由は、たぶん下に紹介する松木さん自身の言葉からも伺える。
不思議なのだけど、ワークに参加しているのに、ワークされている感じがしない。ブログラムにそって動いているのに、自由に心の冒険の旅に出られ、また今ここに還ってこられる。その日そのときの状態で、自分がどこに行く着くかわからないとしても、最後まで絶妙な距離感で “伴走”してくれるのだ。ときおりインディアンのトリックスター(道化師)的なユーモアをぶちかまし、わたしたちを驚かせたり笑わせながら(笑)
「俺にラコタの儀式と伝統的な生き方を教えてくれた
アンクル・ロイというインディアンがいる。
俺にとっては、師匠にあたる人だ。
初めてのスウェットロッジ(浄化と再生の儀式)も
彼がセレモニー・リーダーだった。
強烈だった初めてのスウェット後、
ロイと二人きりになったとき、彼が俺に言ったんだ。
『 Tadashi この大地の上に生きる者にとって
最も大切なことが何かわかるか?
.....それは Faith(信頼)だよ』と。
スウェットロッジの灼熱のスティームの中
いつだってロイのセレモニーの場は時間が止まっていた。
とってもリアルなんだけど、
夢の中ですべてを経験している...
“いま”がリアルで
“次にどんなことが起こって.....そして....” なんて予定調和はない。
ロイといると、
しょっちゅう “いま”というときの流れに戻された。
そしてロイによく言われたなぁ.....
『先のことばかり考えすぎるな
気がついたらもう死んでるぞ!』ってね」
こう松木さんが語られたうち、わたしの関心どころは「とてもリアルなんだけど、すべてを夢の中で経験している」という部分。先住民の人々が「ドリーミング・ジャーニー」と呼んでいた、日常のリアリティと同じくらい大切にしていた “夢見”の世界でのリアリティ。いにしえの先住民は、いくつかの世界のリアリティを縦横無尽に行き来する自由な意識をもっていたという。
今回タイトルに掲げた “Calling(招命)” とは、まさにそのドリーミング・ジャーニーの出発点にあたる。
まさにわたし自身がつい最近、人生における何度目かの魂からの呼び声を、松木さんの伴走でハッキリと意識化でき、そのことが「わたしらしい表現の在り方」をめぐる挑戦の旅に船出するキッカケとなった。だからこうして長く筆を止めていたブログも再開できている....
新たなドリーミング・ジャーニーで、わたしに何が起きたのか。今後、綴っていきますが、少しだけ披露すると、スピリチュアルな業界でよく見かける、自分が宇宙と一体となって素晴らしいインスピレーションが降ってきた....とか、そういうキラキラした感じでは全然なくて(苦笑)
今回わたしにとってのコーリングは、地の底を這うように心も身体もエネルギー(生命力)も絶不調なときに、自分の奥底からかすかに響いてくる通奏低音のようなものだった。それを魂からの呼び声として受け取るには、やっぱり勇気がいりました。
最後に、不調が続いたわたしを見守り、支えてくれた方々に、心からの感謝を。スウェットロッジのときのファイヤーと、バッファローのスピリットを祭った聖なる祭壇、その奥に煌々と輝く満月の美しい光景とともに。
(写真提供:マザーアース・エデュケーション)

【松木正さんとのコラボレーション企画ご案内】
2019年3月21日(木・祝日)春分の日開催!
マザーアース・エデュケーションPresents
魂からの呼び声(Calling)を聞け!
Hero & Heroine's Journey 序章〜
開催日:2019年3月21日(木・祝)
時間:12時開始〜19時終了予定
会場:横浜市緑区 JR横浜線「中山駅」徒歩4分【Tama Cafe】
内容:ラコタ族に伝わる7つの儀式の一つ
「ロワンピ」という歌と祈りのセレモニーを
春分というパワフルな日にあわせて現れる
満月のエネルギーに乗せて行い、
新年度さらには、天皇の世代交代という
日本人のメンタリティにとって
大きな変化の流れとシンクロしながら
参加される一人ひとりの祈りと真の願い、
そして新しい自分へのコミットメントを
グレートスピリットに届けます。
2019年6月14日(金)〜6月16日(日)清里高原にて開催!
Hero & Heroine's Journey 本編
【大地に根づいた男と女に生まれ変わる
スウェットロッジ・リトリート】
日程:6月14日〜6月16日(2泊3日)
内容:これまで女性限定で開催してきた
アジャンタ主催による
松木正氏のスウェットロッジ・リトリートを
今年から男女ミックスの場として再編成!
魂の呼び声(Calling)にしたがって
清里につどった大人の男女が
それぞれの「わたしがわたしになっていく旅」
つまりヒーロー&ヒロインの旅に共に船出します。
そのプロセスでは、
男と女が本音で語り合ったり、
男性性や女性性をそれぞれ見つめ直す時間があったり、
がっつりドリーミング・ジャーニーの時間もとりながら
自分の中心に還り
大地に根づいた男と女として生まれ変わる
特別なスウェットロッジ・セレモニーをとおして
新しいアイデンティティを手にいれた
男女として出会い直していくリトリートです。
「あなたの中に死んでいきたい」という想いさえも、熔けゆく深みへ... 影舞 円坐、そして未二観 篇
「あなたの中に、死んでいきたい」
わずかに声を震わせながら、でもはっきりと、彼女がそう口にした光景を覚えている。
ふたりの人間が、たがいに一本の指先だけをふれあわせて舞う “影舞” のとき、そんなふうに感じたのだと彼女は話してくれた。その切実さと、どこか官能的な悦びをも感じさせる声の響きに、わたしの心臓はドクンと脈打った。こんな言葉を、真剣に、だれかに伝えられる姿にシビレた。
わたしにはちょっと面倒くさいところがあって、「好き」とか「愛してる」と直接伝え合うより、どちらかというと、それこそ「あなたの中に、死んでいきたい」みたいに、その人の正体が露(あらわ)になるというか、隠しきれない汗の匂いまで漂ってきそうな生ぐさい表現に、よほど自他ともへの愛の粋(すい)やタントリックな香りを感じたりする。
そして、男と女が影舞の時空に熔けていくこんな瞬間にも、わたしはタントリックな芳しさを感じずにはいられない。
※実は「影舞タントラ説研究会」を4年前から一人で発足中(笑)

タントリックな瞬間って、わたしにとっては日常の細部にあって、必ずしも瞑想しているときだけに起こるものじゃない。一瞬でも自我なりマインドなりを忘れ、日常のリアリティの中で目の前の存在に文字どおり “一心” に向かっている状態がベースになるんじゃないかと。
性的な場面だけでなく、料理でも洗濯でも顔を洗っているときでも同じ。そうした日常の行為の連続性から五感の扉が開き、だれかとのふれあいの中にも自己が熔けていくありようを感じやすくなっていくのかもしれない。わたしがイタリアまで行って参加しているグループを主催する タントラライフ のキャッチコピーは “ two becomes one ” なのだけど、この「ふたりがひとつになる」という感覚は、 たぶんこんなニュアンスを表現しているのだと思う。
“一期一会の終の旅
うらをみせ おもてをみせ
散る我ら
華の道連れ逢坂の
ふたりで歩くひとり旅
影舞 円坐の白き道 ”
(橋本久仁彦『影舞 円坐 和讃』より)
そんなタントラ探求者でもあるわたしにとって、こうした詩(うた)を編む橋本久仁彦さんが守る場は本能的に惹かれるのだ。人間関係において、生身の人間どうしの深いふれあいに、どれほど傷つこうと向かっていく好奇心と勇気をくれる。
橋本久仁彦さんは教育現場で「教えない授業」を10年実践されたのち、数十年にわたり欧米のさまざまなカウンセリングやセラピーアプローチを探求されてきた。なかでも、まさに生身の人間どうしの有機的な“出会い”を見届けていく非構成的エンカウンターグループにかけてこられた時間と熱量は、わたしなどの想像の域を超える。近年ではそのエンカウンターの場でさえ「やりきった上でなお、肚落ちしていない自分がいた」(ご本人談)という。そして、より日本人としての感性に立ち還って人間主体の世界観を一度手放し、生活環境(自然)や人生の予期せぬ出来事の中でこそ、初めて生かされる人間の有り様を見つめていこうとする独自の場づくりをデザインしてこられた。
それが【円坐】という場であり、そこに集う人たちがたどる道往きを見守る者を守人(もりびと/エンカウンターグループでいえばファシリテーター的立場)と呼び、その在り方として大切な、目の前の人の話を“そのまま聞く”ことの研鑽となるミニカウンセリング(現在は「未二観」と呼ばれている)のクラスも提供されてきた。
ミニカウンセリングをめぐる思いは、ちょうど一年前の記事にも書かせてもらったので、よろしかったら、どうぞ。
そんな橋本さんとの3年目となる半年間のミニカウンセリング・コースの質が、今年から舞台を鎌倉に移して変わっていく。昨夏、還暦を迎えられた橋本さんご自身、一方的に受講生にカウンセリングやグループ・ファシリテーションのノウハウを教える講師的在り方ではなく、わたしたちとともに目の前にいる人の全存在を “めぐり” “まわり” “かえる(還る)”という在り方へと移ってきている、とおっしゃる。
今までの “ 研鑽” し “辿る” という
一方的な人への向かい方から
その方(「その人」の意ですが「方」には
方位=特定の広がりという実質があります)を
「めぐり」「まわり」「かえる」という在り方へ
僕の心境が移っています。
もうすぐ母のようにみんなの前からいなくなる
(著者注:一昨年、橋本さんはお母様を看取られた)
消えて「逝く私」の立場から
人の言葉を「辿る」と
それはそのまま帰り道(還り道)になります。
『影舞 円坐 和讃』に書きましたように
「あなたが私の還る空」となります。
60歳以降は若い人に合わせる物言いや態度はやめて
直接的に和讃の言葉や
僕のその時の直観や心象を用いて
未二観や影舞、円坐を表現していきたいです。
ミニカウンセリングも単に言葉を辿るのではなく、もっと目の前の人を立体的にとらえながら、その唯一無二の存在から発せられる声(言葉にならない声までも)に耳を澄ましていく、という聞き手や守人の在り方とは、どういうものなのか。
海辺や神社仏閣など、鎌倉の風光明媚で歴史的な土地にも足を運び、毎回1泊2日の合宿スタイルで半年間、ご縁あって集った8名の男女とともに、たっぷりと影舞と円坐の時間もとりながら探求していきます。
たとえばそう、影舞や円坐で「あなたの中に、死んでいきたい」という情がわくこと自体すごいことだけれど、そうした想いさえも、向かい合うふたりの間に熔けていくような時空の深みへと、あなたといろんなところを環(めぐり)ながら「環の稽古」という旅をしてみたい.....そんな思いでいます。

【2019年度 橋本久仁彦とともに鎌倉で過ごす12日間
ミニカウンセリング(未二観)と円坐・影舞 “環の稽古” 合宿コース】
第1回 5月24日(金)〜 5月25日(土)
第2回 6月28日(金)〜6月29日(土)
第3回 7月19日(金)〜7月20日(土)
第4回 8月30日(金)〜8月31日(土)
第5回 9月20日(金)〜9月21日(土)
第6回 10月18日(金)〜10月19日(土)
男女8名限定(会場の古民家のスペース上、増員はありません)先着順で定員になり次第、募集を閉め切ります。少人数で、濃密に、ミニカン(未二観)影舞 円坐 から起こる全てを味わってまいりましょう。
※ こちらのイベントは終了しました。
言葉はどこからくるのか 〜現れた言葉の奥にあるもの
おひさしぶりです。
さすがに元旦は休みましたが、年末年始はせっせと働いてました。
毎朝、日の出前に起きて(暁の空の、なんと美しかったこと)弁当をつくり、冬の凛とした外気に深呼吸して朝陽を浴び、日が暮れるまで作業に没頭する。一日が終わるころには身体はクタクタに疲れているけれど頭の中はクリアで、夜眠れるようになった。
昨年末まで半年近く、体調を崩して伏せっていたこともあり、暮らしのリズムを取り戻すために、しばらく規則的に働くことがしたかったんです。
仕事のとき以外は、なるべく丁寧に家事をして、空を移ろう陽光や雲、月星に目を凝らし、一冊の本を繰り返し読んで “言葉” について思いをめぐらせる... そんな感じで淡々と年を越し、心と身体と暮らしを整えていけたのはよかったな、と。

“姿は似せがたく、意は似せ易し”
「ここで姿というのは言葉の姿の事で、言葉は真似し難いが、意味は真似し易いと言うのである。普通の意見とは逆のようで、普通なら、口真似はやさしいが、心は知り難いと言うところだろう」(小林秀雄著『考えるヒント』文春文庫より)
言葉についてちょっとマニアックな話をします。
このところ読み返していたのは文芸評論家の小林秀雄氏が書いた『言葉』(上記『考えるヒント』収録)というエッセイでした。江戸中期の国学者・本居宣長が歌(万葉集の和歌など)がどのように生まれるかを解き明かすことで、歌詞に欠かせない言葉の成り立ちまで「姿は似せがたく、意は似せ易し」というキーワードから紐解いたことを紹介しています。
小林さんが指摘しているように「言葉は真似しやすく、意味は真似しにくい(理解しづらい)」というのが一般に多い考え。実際、よく意味はわかっていないけれど、なんとなくその言葉を使って意見をのべることって、まあ普通にあったりします。
そこへ本居宣長は、こう断言するんです。
「言葉こそ第一なのだ、意は二の次である」と。
「言葉にこそ意味は宿る」「言葉にして初めて意味は生まれる」といった文脈でしょうか。じゃあ、はじめに言葉ありき、というその「言葉」とは、いったいどこからくるんだろう。
“今しばし
生きなむと思ふ
寂光に
園(その)の薔薇(さうび)の
みな美しく”
いきなりですが、美智子皇后さまが昨日(1月16日)催された「歌会始の儀」で披露された御歌です。高齢となられ残された人生に向けるご自身の心境を、御所に静かに咲く薔薇を眺めながら詠まれたそう。
ふだんは和歌の素養に乏しい人間ですが、たまたま目にしたこの御歌を聞いた瞬間、意味や背景をすぐさま理解したわけでもないのに、じんわり胸が熱くなり涙ぐむ自分がいて驚いたんです。
いったい何が起こったのか。
歌に詠まれた “言葉” そのものに鍵がありそうです。
この現象に、本居宣長が語った「言葉こそ第一なのだ、意は二の次である」の真意が垣間見える気がするのです。再び小林秀雄氏の解説を拝借します。
「姿は似せがたく、意は似せ易し。言葉は、先ず似せ易い意があって、生まれたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている」
「歌とは情をととのえる行為である。言葉はその行為の印しである。言葉は生活の産物であり、頭脳の反省による産物ではない」
「歌の発生を考えてみると、どんなに素朴な情が、どんなに素朴な詞に、おのずから至るように見えようとも、それはただ自然の事の成り行きではない」
言葉は、いったいどこからくるのか。
この問いには「心のうちに湧き上がる人間らしい感情が源泉」だと言えそうです。その上で形なく無秩序で不安定な、喜怒哀楽あらゆる感情を整えることで初めて人に伝わる “言葉” が生まれる。
ここで言う「整える」とは、感情を理性で整理して言葉にするといった意味というより、容易に他人には真似ることができない、自分固有の感情や思いに、おのれ自身逃げることなく心から寄り添っていこうとする在り方なんじゃないか。
だからこそ、言葉は人と人をつなぐ社会的な “生きもの” に成りえるんじゃないか。
であれば、世に「言葉では嘘をつける」なんて揶揄する文脈もけっこう見かけるけれども、いやいやいや、実は “言葉” でこそ嘘つけないんじゃね?って話じゃないか。
言葉は人と人をつなぐ
社会的な“生きもの”だからこそ
本心を隠そうとして
言葉で取り繕おうとすると
自分が発したその言葉から
反撃を食らうことになるかもしれない
だいぶ長くなったので、もう終わりにしますね。
最後にひとつ、上の仮説をぶちこんでおきます(笑)
何からの理由で自分の本心を隠す、あるいは見ないようにする行為を言葉を利用して補おうとしている時と、本居宣長が言うところの「生活や経験の産物としての言葉」が現れてくる時とでは、周囲に与える印象や影響はまったく違ってくることに関心があるんです。
ここ数年取り組んでいる円坐(いわゆる非構成的エンカウンターグループ)では、自分のありようも含めて、こうした現象がけっこう見られるから。
そもそも「言葉はどこからくるのか」という問いと「姿は似せがたく、意は似せ易し」という言葉は、昨年暮れに催した円坐に参加された女性が投げかけてくださったもの。実に感慨深く、面白いテーマをいただきました。
理性ではどうにもならない、心の動き。
それを “業(ごう)” というけれど、どうにもならないものに突き動かされるままに生きていこうとする、勇気ある人間たちがいるかぎり “言葉” の生命力は増し、この美しい世界と自分をつなぐ架け橋になると思うんです。
長くなった勢いで、言葉をめぐる旅でもあるミニカウンセリング(未二観)&円坐の合宿コースの宣伝もさせてもらいます。
今年5月〜10月、鎌倉にて半年にわたり月1回、橋本久仁彦さんをお招きしたミニカウンセリング(未二観)と円坐と影舞のお稽古を組み合わせた各回1泊2日の合宿コースを開催します。
次回のブログで詳細ご報告しますが、以下コース日程を。
まさに「言葉はどこからくるのか」ということを、ご自身の全身で体感し探求されたい男女8名(限定です、会場となる古民家のスペース上、増員はありません)ぜひ、半年間ご一緒しましょう。会場近くの鎌倉の海辺や神社仏閣で、季節の移ろいを感じながら円坐や影舞もいたします。
【2019年度 橋本久仁彦とともに鎌倉で過ごす12日間
ミニカウンセリング(未二観)と円坐・影舞 “環の稽古” 合宿コース】
第1回 5月24日(金)〜 5月25日(土)
第2回 6月28日(金)〜6月29日(土)
第3回 7月19日(金)〜7月20日(土)
第4回 8月30日(金)〜8月31日(土)
第5回 9月20日(金)〜9月21日(土)
第6回 10月18日(金)〜10月19日(土)
※ 本イベントは終了しました。

目の前の人の言葉によって、自分が生きていることを思い出す。
我々がただ語り、ただ話す(放す)ことが、実は一大事であること。
そしてそれは「聞く者」がいて初めてアラハレる出来事であること。
だれかの言葉が長い時間をかけて、ようやく身に沁みてくる、ということがある。
「理解する」というより、文字どおり「身に沁みる」という表現がしっくりくる。
非構成的エンカウンターグループを日本人の感性から“円坐”という場として実践してこられた橋本久仁彦さんが語られた、この言葉を耳にしてから数年が経った。円坐の守人(ファシリテーター的な存在)をする際の基礎となるミニカウンセリングで、「話し手」と「聞き手」の空間で起こる実存について語られたことだ。
この2年、わたし自身ミニカウンセリングと円坐守人の稽古を続け、10日間にわたる長丁場の円坐も2度経験して、なんとか、ようやく、冒頭の言葉の本義が見えてきたかもしれないという場所にいる。もちろん、それを実践する道はまだまだ途上で、橋本さんが見ている先の景色にさらに近づこうとしているのが今のわたし、かな。

数年前のわたしは、長年続けてきた大手雑誌や新聞でインタビュー記事を書くことに疲れ切っていた。締め切りがくるたびに鬱状態に陥る自分がいたたまれなかった。学生時代から現場叩き上げでインタビュー取材のいろはを学び、「売れる」「人目を惹く」キャッチコピーを取りにいくような勢いで著名人に話を聞きにいって質問していたし、聞いた話を誌面の文字数制限のある中で「読みやすい文章にするために編集する」ことは当たり前にやっていた。もちろん、今だってそのように商業雑誌や新聞はつくられているし、だからこそ生じるマスコミの功罪が世間を賑わしていたりもする。
今はそうした話題性・生産性優位の世界からは距離を置き、親しい友人知人からの取材・執筆のご依頼にお応えするだけにとどめている。そして、インタビュアーを引き受けるからには、できるかぎり丁寧に話を聞かせていただいたうえで、その方の言葉を綴っていきたい.....そんな思いでいる。
一度はインタビューすること、文章を書くことに燃え尽きた自分がいた。けれど今、円坐で共に座る人たちの言葉に耳を澄ましたり、ブログで自分の思いを表現できるようになるまでに回復したのは、これまで橋本久仁彦さんによるミニカウンセリングのクラスを主催して、“聞く”ということの本質を一緒に探求してきた仲間たちと共有した経験の影響は大きい。

今、あらためて2017年の半年間をともにした12人の【15分間の作品】を聞き返している。ひとりひとり語られたことは違えど、15分間に現れたその時の彼らの在りようと世界への眼差しに胸打たれる。
自分が何者であるのか、どこに向かって生きているのか、本当は何をしたいのか、どんな愛のかたちを求めているのか......そんな問いを自ら立てながら、とつとつと語っていく中で、彼らは現在から過去、未来へと自在に意識を移ろわせながら視界の解像度を上げ、自分がたどり着きたい場所に向かって舵を切っていく。
驚くべきは、こうしたダイナミックな内なる動きを話し手は無意識にやっているということ。聞き手からの質問などいっさいなくても、である。橋本さんのもとでミニカウンセリングをやっていてこの現象に気づいたとき、わたしはそれまで自分がしてきた質問ありきのインタビューの傲慢さに愕然とした。
話す人がいて、それを聞く人がいる。もっといえば、そのまま聞いてくれる人がいるから、人はようやく自らの繊細な深部を言葉にすることができるのだろう。そして「そのまま聞く」とは、「傾聴」や「共感的に聞く」とは必ずしも同質のものではないということにも、気づきはじめている。
聞き手が話し手の言葉の意味を
積極的に聞き取ろうとすればするほど、
「〇〇さんの15分間」は「曇って」しまいます。
ミニカンや影舞の実習で、「質問する心」や「意味を分かりたい心」が落ちていきます。
(中略)
ミニカウンセリングの「15分間」とはそこにいる二人によって生じる一つの「時空間」のことです。
二人が振れ合って一つの時空に溶け合いその時空が「より本当」になっていく姿は、影舞と同じ景色です。
(中略)
ただ「きく」だけでよい。
「わたし」はその 「“きく”15分間」 を宣言し、荘厳し、大切な場所として守る「守人」の役目を、15分間だけ務めます。
15分間の「きく(菊)作り」
個体や物体として、「対象としてそこにあるもの」と理解してきた「自分」や「他者」が、たくさんの時間や場所が重なっている
「中心のない空間」 であるということ。
個体や物体で 「できている」 この世の中に「15分間」という、この世に属さぬ「あいだ(間)」や「さかい(境)」の場所を
作り出す 「聞く」 という道往き。
夢と現(うつつ)が幽玄に重なり魅せるこの15分間の風景を、重なる花弁になぞらえて「菊」と呼ぶ。
菊作り 菊見盛りは 蔭の人 はしもとくにひこ
大げさに思われるかもしれないけれど、わたしは自分が確かに生きているということを、だれかの言葉や眼差しにふれて強烈に思い出す瞬間がある。彼らが見ている景色の美しさ、感じている喜怒哀楽に胸打たれるのは生きているからこそだ。
そうした意味からも、わたしは橋本さんがいざなうミニカウンセリングの時空間をとおして出会う人たちと、彼らが語る世界の在りように強く惹かれる。この感覚は「質問したい心」や「意味を分かりたい心」でインタビューをしてきたときには、知りようがなかった。
きっと、もっと深く出会いたいんだ、目の前の人と、そして自分自身と。
それが、わたしがミニカウンセリングや円坐を続ける理由なのだと思う。

“自分を表現する” よりも “自分が現れてくる” ときの圧倒的な美しさ
しだれ梅、その影もまた美しい。
というより、むしろ影の存在が梅の美しさを際立たせている、とさえ感じる。

古語では「光」のことを「影」といったのだとか。万葉集や古事記では、太陽や月の光を表す言葉として「影」がもちいられているし、場合によっては「姿」を表すこともある。
漢字学者の故・白川静先生は、影の首部の「彡(さんづくり)」は「美しさ」を表すことから、「影」は光の美しさ、あるいは光と影の両者でつくりだす陰影の微妙なニュアンスのみごとさを表すものと考えておられたという。(『成り立ちで知る漢字のおもしろ世界 自然編 白川静著「字統」「字通」準拠』伊東信夫著より)
古代から日本人は影に光や何かの姿を観て、そこに美を見いだしていた。この感性は、だれかの面影(心のなかに在る人の顔や姿)を写した物を大事にするという、わたしたち日本人のメンタリティに強く影響しているように思える。(あ、影響と今書いていて、これも「影が響く」という影つながりな言葉だったと気づく....影の影響力ってすごい)
で、ともあれ「影」の空間から立ち現れてくる美しさについて考えてみたいのです。
ついては、ひとつ素敵なエピソードを。
一昨日「影舞」をご一緒した男性との空間で起きた、圧倒的な何かのうねりに、わたしたち二人が運ばれていく感覚が、いまだ色濃く身体に残っていて。
その「圧倒的な何か」に思いを馳せると、浮かんでくる言葉は「美しさ」なのだけど、もっといえば甘美さや耽美さをも内包する、互いの根源的な存在美がふれあうことで生じたエネルギーのうねりだったかもしれない、と思ったりする。
彼と指先と指先を繊細にふれあわせながら「影舞」をしたとき、わたしたちに一切の目的はなく、舞踊のように自分や何かを表現するとか、美しく見せようといった意図も働いてはいなかった。ただただ、ともに在ることで起こる流れ(動き)に身をまかせたにすぎない。
それにもかかわらず、鑑賞してくださった方々からは「美しさに圧倒された」「艶やかだった」などと褒めていただき、一緒に舞ったお相手からも「綺麗でした」とまで言っていただけるという......ありがたい言葉を心に沁み渡らせつつ、なんというか、自分だけが自らが醸し出したらしい美しさを観ることができないもどかしさに身悶えするような感覚もあり(苦笑)
だからこそ、やっぱり気になる。
「影舞」の空間で、いったい何が起きているのかということを。
影舞や円坐を探求されてきた 橋本久仁彦さんは、こう語られている。
影舞は、誰にでもすぐできる舞いの形です。
特に、詩や歌曲などと共に舞うと、詩や歌詞の言葉の「形」がくっきりと際立ち、聞き慣れて当たり前に知っていた曲がこの曲ってこんな歌だったのか、と時には涙になるような感動をもたらすことがあります。
影舞では、舞い手は楽曲をほとんど聞いていませんので、歌の心を表現する意図を持つことができません。
にもかかわらず、影舞を見る人は、詩歌そのものの心を普段より深く感じ取ることになります。
影舞とは影間居(影の間に居ること)。
「自分を表現する」から退きあげていく稽古。
静まる(鎮まる)稽古。
「自分」という熱が冷めていく稽古。
舞い手が無垢な在り方で、自分を踊らず、ただそこにいる(間居)と元々の詩歌の言葉やニュアンスが自由になって向こうから立ち上がってきます。
(橋本久仁彦さんオフィシャルウェブサイトより)
「影舞とは影間居(影の間に居ること)」と「古代から日本人は影に光や何かの姿を観て、そこに美を見いだしていた」ことは、どこか通じているようにわたしは思える。
おそらく「自分を表現」しようとすることでは現れない美しさが、自己が「影」の空間に在る(たぶんエゴが希薄である)ときにこそ、より色濃く立ち現れてくるのだと思う。しかもその美しさは周囲の人たちが感じとってくれるものであり、本人にはわかりようがない。本人はただ、他者に照らされて自分の影(光、姿)を知っていくということ。このことを主体的ではないとする見方もあるけれど、だれかとの関係性に本気で向き合おうとするならば、それは抗いがたい“事実”だろうと思う。
それほどに、わたしたちは生きるうえで“影響”しあわずにはいられない存在なのだということ。だからこそ、二人の影が響きあったときのエゴがブッ飛ぶような官能と美しさに、どうしようもなく惹かれてしまうのかもしれない。
独り立つ者どうしが、ただともに在るということ。
どうやら風邪っぽい。
のどに違和感、味覚もおかしくなってきている。
頭がぼんやりして身体の節々にかすかな痛みも出てきた。
強烈な体験のあと、わたしの身体は大抵こんなふうに熱をおびる。
それでも今回は、これまでとは比較しようもないほど、激しい恋に身を投じたときのような深いところでの感情・体感のうねりを味わい尽くした日々だった。
きのうまで京都の日本海側、天橋立のある宮津市に10日間滞在していた。
着いたとたんにけっこうな降雪に見舞われ、白銀の迷宮に迷い込んだ気分になったけれど、そこは目まぐるしく天候が変わる土地。帰るころにはすっかり雪は溶け、晴れ間に眺めた海と空は、この美しさ。

10日間にわたる円坐(いわゆる非構成的エンカウンターグループ)は2回目で、けっこう迷ったすえの参加だった。仕事の進行を調整する必要があったし、なにより18名の年齢もさまざまな男女が、朝から晩まで円になって座り、おのずと起こり展開していく語りの空間に身をおきつづける。とても興味深くはあるのだけれど、なかなかにヘビーな場でもあるから。
本気で人とかかわり合おうとする時に浮き彫りになる、自分の正体。その姿から今、自分がどんな信念から生きていて、どんなことから逃げようとし、どんな内なる願いを抱いているのかが、誤摩化しようのない強烈さで、つどった人たちの前で明らかになっていく。
わたしたちは圧倒的に独りでありながら、圧倒的に他者を求め、濃密な関わりあいのなかで自分と相手のことを体感として知っていく。最初からパーフェクトなかかわり、ふれあいなんてできっこない。その都度、心に傷みが生じることもある。けれど、相手との間にもし喜びが生まれるとしたら、今できうる限りの繊細さと勇気をもって相手に手探りでも近づいていくことからはじめるしかない。

天橋立に滞在していた間に降り積もった雪がゆっくり溶けて無くなったように、わたしたちの内側でも、これまで何とか生き抜くために力んで積み上げてきたものが溶けて、その下に芽生えていた、これからの人生にとってかけがえのないものの存在にふれることができた気がする。
そのフェーズへは、とうてい独りでは辿り着けなかった。大切に思える人たちとの真剣なかかわりがあったから、傷を舐め合うのでもなく、ケアしあうのでもなく、独りで立つ者どうしが、ただ一緒に在り道(未知)をきり拓いていく....という最高に面白い人生の可能性を確認できたのだと思う。
今回のグループを通して、わたしは最後の最後に、あらゆる責任を引き受けて独りで生きて死んでいくと無意識に決めていたことが明らかになって愕然とした。それに気づいた瞬間、自分の言葉に押しつぶされそうになった。けれど、ある人からの「あなたは、あきらめていないと感じる」という言葉を辿ったとき、ようやく息がつけた。
わたしは、あきらめてなんかいなかった。
人と深くつながり、ともに歩いていくことを。
そんな自分との“出会いなおし”ができたこと。そのきっかけをくれた人たちとの出会いを深められたこと。彼らとの一瞬、一瞬が、愛しい宝物のように思える。
10日間、ありがとうございました。